……あの時のこと、憶えているか? 釘付けになっていた彼の口唇がそう音を紡ぐ。 忘れられるわけがない。 黙って頷く直江に高耶は語った。目元に優しい感情を滲ませて、過ぎし日の光景を愛おしむように。 ……垣根越しの道端にお前が立っていた。陽射しが髪に透けてきらきらしていた。 すごい、綺麗だと思った。 ずっと鬱々と過ごしていたから、まだそんな風に心動かせる自分に驚いた。 おまけにお前は、オレを褒めてくれたんだ。あの庭の赤い小菊を。とても綺麗ですねって、にっこり笑って。 オレがどんなに嬉しかったか、きっとお前には解らないだろうな。 まるで天に昇るよう、見ず知らずのお前に、咄嗟に自分の形代を押し付けてしまうぐらい舞い上がってた。 思いもかけない告白だった。 内緒の話をようやく打ち明けた安堵と躊躇いの所為なのか、 うっすらと目尻に紅を刷く様が、まるで含羞を含んだよう。彼から目を離せない。 だから、その表情が再び曇るのに、胸が締め付けられる思いがした。 ……一度きりでよかった。行きずりのお前に認めてもらっただけで満足だったんだ。そう自分にも言い聞かせていたから お前から援助の申し出があった時は、正直、戸惑った。 こちらとしては願ってもない話だ。美弥の身体を治してやれる千載一遇の機会だってことも、もちろん解っていたんだけど。 オレが書生として住み込むことでお前の健康を損ねやしないか、それだけが気懸かりだった。 暫く悩んで、 でも、ここに来た。 ごめんな。結局オレはお前の身体のことより、美弥と爺さんの遺言とを優先させたんだ。 美弥がよくなる数年の間だけと自分に言い聞かせて、お前の傍に来てお前を危険に曝し続けた……。 それなのに。 突然、高耶が泣き笑いのように顔を歪める。 恩を仇で返しているっていうのに、そんなオレにお前はいつだって親切で優しくて。 良くしてくれればくれるだけおまえの好意につけこんでいる自分が厭わしくて。どうしようもなく後ろめたかった……。 彼の頬に涙が伝うのを、呆然として直江はみつめる。 嫌われているのだとばかり思っていた。 日々濃やかな世話をしてくれながらも一向に打ち解けてくれないのはそういう理由なのだろうと。 傍にいてくれるだけでいいと無理やり諦めてもいた。 そんな長年の思い込みが根底から崩れていく。 負い目は直江にだけあったのではない。高耶もまた口にできない秘密を抱えていた。 それゆえのよそよそしさ、他人行儀だったのかと、ひとつひとつの出来事をかみ締めるように思い出し、得心する。 彼をがんじがらめに縛っていたのは直江の金の力でなく彼自身の心だったのだ。 そして、彼がここまで赤裸々に打ち明けたのは、もう留まるつもりがないからだ。 憎からず想っていたと遠まわしに告げながら、その想いさえもあっさり封じようとする頑なな彼の決意をどうしたら翻せるものか、 別の意味で途方にくれる直江だった。 |