高耶は静かに泣いている。 あとからあとから頬を流れ伝う透明な雫に 見惚れながら、そういえば、今まで彼の涙を見たことはなかったなと、痺れた頭で考えた。 泣き顔だけではない。思い出話で自然に零れた笑みも、憂いも。 たった半刻ばかりの間の高耶の表情が、いつになく鮮やかなのだと直江は気づく。 胸に痞えた煩悶を吐きだして、彼は解放されたのだ。 元々が花の精霊、きっと本来の彼はよく笑いよく泣いて、幼子のようにきらきらした気を放っていたのに違いない。 自分の傍にいた長の年月、どれほど心を押し殺していたのだろう。 能面のようだった彼の表情を思い返し、その落差が痛ましかった。 「高耶さん」 呼びかけると、彼は静かに面を上げた。 「私のことが、好き?」 怖ろしくて、面映くて、今まで訊けずにいた想い。勇気を振り絞ってもっと早くに発していたら、 無用な堂々巡りはしないで済んだ問いかけに、濡れた眼差しが瞬いた。 「私はずっとあなたが好きでした。一目惚れだったんです。なんとかして傍にいてほしくて援助を持ちかけるような姑息な手段に出ました。 あなたが私に引け目を感じていたように、私もあなたを金で縛り付けるようなやり方が後ろめたかった。 あなたを好きでたまらないのに好かれるはずがないと思い込んでいたから、本音をぶつけることができなかった。屈託あるあなたの態度を突き崩せずにいたうつけ者でした。 でも、好きです。あなたが人であろうとヒト以外のものであろうと関係ない、あなたの全部が大好きです。 ……あなたは?あなたは私のことをどう思っていますか?」 直江の言葉を、高耶は呆然と聞いている。 ひょっとしたら―――少なくとも恋愛めいた感情に対しては彼は見かけよりもずっと晩熟なのかもしれないと、ふと思った。 直江の問いに応えようとしてか、薄く開いた唇が何度か戦慄く。そのたびに唇を湿らせ、やがて、彼はぽつりと言った。 「わから……ない」 途方に暮れた子どもみたいだった。 「でも、直江は、爺さんや美弥と同じぐらい大切な人だから。……だから、これ以上オレが傍にいちゃいけないんだ」 そして、やっぱり子どもみたいに頑なに同じ言い分を繰り返す。 「じゃあ、質問を変えましょう。あなたが来てからこっち、私が弱ったように見えますか?」 高耶ははっと直江を見つめ、しばらくしてから不承不承といった態で首を振った。 「でも、それはっ!おまえが若くて頑丈な大人の男だからで。そのうちきっと」 言い募ろうとする先を、引き取った。 「そうですね。私も人間だからそのうち風邪のひとつぐらいは引くかもしれない。でもそうなったとしてもそれは私の不養生のせい。断じてあなたの所為ではないんです。解りますか?」 「………」 自分の言を否定されて、高耶は黙り込んでいる。 「それにね、高耶さん。そもそも菊は長寿を寿ぐ瑞祥の花。その菊花の精だというあなたが人に障りをもたらすなんて私にはどうしても思えないんです」 「……でも現に爺さんはっ」 悲鳴みたいな声だった。きっと、この別離が彼の心傷。 「ええ、寝付いた末に亡くなられた。お気の毒なことです。でも、失礼ながら先代はかなりの高齢でいらしたのでしょう? 悲しいのはもちろんだけど、先代を知る方々の中には大往生だった、あやかりたいものだという声もあったのではありませんか?」 そっと探りを入れてみる。不満気に眉をひそめるその表情が答えだった。 「美弥だって」 ぼそりと呟く声に先ほどまでの勢いはない。 「偶然だと思うんです」 柔らかく、宥めるように直江は続けた。 「小さなお子さんでしたから抵抗力がなかったのかもしれないし、元々丈夫な性質ではなかったのかもしれない。 お爺さまを亡くされて気落ちしたことが引き鉄になったのでしょう。すべてをあなたが負うべき理由はどこにもないんです」 先ほどまでの自分がそうだったように。 高耶も自責に凝り固まって動けずにいる。 彼が人外である事実、美弥が病み老人が亡くなった過去は変らなくても、少し角度を変えてみればまた違う解も存在するのだと、なんとか解ってほしかった。 拠り所にしていた事実をひとつひとつほぐされて、高耶の貌が泣き出しそうにまた歪む。その表情が今は幼く思えた。 「……おまえ、ずるい」 拗ねた口調までもが稚く響く。思わず破顔しそうになるのを堪えて、精一杯しかつめらしい風を装った。 「ずるくなんかありません。真実を述べたまでですから」 さあ、ここからが正念場だ。息を整え、一言一言を噛みしめるように彼に告げた。 「私に障りがないのだからあなたが消える必要はない。だから、ここから先はあなたの気持ちひとつです。 ……私のことを好いていてくださいますか?それとも、もう一緒に居たくないほど嫌いですか?」 「………」 返事はない。 「もちろん私はあなたの傍にいたいです。主として傅かれるんじゃなくて、家族みたいに笑いあって暮していきたい。 ね。これからはそうしてくださいませんか?」 もう一押しと重ねた言葉に、ようやく彼が重たい口を開いた。 「……本当にそれでいいのか?」 「はい」 「後から後悔したって遅いのに」 まだしぶとく彼に残る呪縛の根っこ。でも、負けない。何度だって払ってみせる。 「だから、絶対そんなことにはなりません。なんなら賭けてもいいですよ。そうだ。そうしましょう! ただし実証しなきゃ結果はわかりませんからね、どのみち高耶さんには私と暮していただくことになりますけど」 「なに、それ?」 小狡いまでの言い様にとうとう高耶が呆れたような声をあげた。その声から思いつめた色が消えているのが、叫びだしたいほど嬉しかった。 「どうかお願いします」 改めて、直江が頭を下げる。 一拍の間があいて。 「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」 凛とした声とともに畳の上に揃えられた指先が視界に入る。 待ち望んだ瞬間だった。 |