田んぼの中の一本道を進みながら、
植物の生命力はたいしたものだな、と、しみじみと高耶は思う。 五月の水田は、黄色した周囲の山や空や雲が映りこむ、文字通りの水鏡だった。 今は青々と葉を茂らせた稲の株が立錐の余地なく水面を隠している。 たった二ヶ月でここまで育つか――― 代わり映えのしない日々を重ねている自分と引き比べそうになって、いや、そうでもないかと思い直した。 この二ヶ月、自分の生活は確かに変った。 直江という存在が入り込んできたから。 バイトを兼ねた直江との田舎暮らしは楽しかったし有意義だった。でもそれはあくまで休暇先での非日常。 日常に戻ってしまえば直江との係わりも自然に途絶えるものだと思っていた。 直江は社会人で自分は学生で。 そもそもの立場が違うのだから互いに築いてきた価値観や嗜好や交流や、きっと様々なものが掛け違う。 一時の親密度を盾にとっての友人面は直江にとっては迷惑だろうと。 でも、違った。 自分よりよほど忙しいだろうに、直江はまめに連絡をくれ、予定が合うようなら一緒に食事をと誘ってくる。 物慣れた態度で時に高耶が怖気るような高級店に案内しながら、 高耶を見つめる眼差しは、あの家にいたときのまま。高耶のために心を砕いているのが伝わってきた。 嬉しかった。 けれど、心苦しくもあった。 度重なる散財の末に、たまにはオレが作ってやろうかとつい口走って、しまったと思った。 これじゃ家に上げろといってるのと変わりない。ちょっと図々しかったなと後悔する間もなく、お願いします!と即答された。 あなたのあのしょうが焼きの味、忘れられないんです! そんな台詞を続けた直江の顔はとんでもなく真剣で、思わず高耶は呆気にとられ、やがて吹きだす。 壁なんか作る必要はなかったのだ。 目の前の男は一回りも年上で高給取りで嫌味なぐらいの美丈夫だけど、自分まで背伸びすることはない、自然体でいればいいのだと、このとき解った。 リクエストされた夕食を何度か作りにいった。 時々はそこに千秋も交じった。 親戚ならではの昔の暴露合戦に高耶は腹を抱えて笑ったけれど、同じぐらい千秋にも笑われた。苦しげな息の下、お前らの会話も漫才にしか聞こえないと言って。 なんだ失敬なヤツだな。 このときだけ直江とハモって、結局、皆で笑い転げた。 千秋がいたからこそだったかもしれない。 彼らの思い出話を聞くうちに、倉に仕舞われているらしい古文書の類が気になりだした。目録を作り年代ごとに整理して時代背景と照らし合わせれば、 近世史の立派なテーマになる。 これは是非とも挑戦したい。 一夏、あの家に滞在してもいいだろうかと、直江に伺いをたてた。 内心断られることはないだろうとたかをくくっていたのに、直江はしばらく眉を顰めて考え込んでしまった。 ダメか? おずおずと問いかけると、無念そうに直江が唸った。 私もご一緒したいのですが……、さすがに一ヶ月は休めません。申し訳ない。 真顔で謝るのがなんとも複雑な気分だった。 本当に一人きりで大丈夫ですか? 大丈夫にきまってんだろ。そもそもオレ、遊びじゃなくて勉強しにいくわけだし。 そんな押し問答の挙句、 結局、最初の数日直江が高耶に同行し、後は時間が空いたら顔を出し、 引き上げの時も同様に数日滞在して細々とした用事を片付けるということで落ち着いた。 そうして二ヶ月ぶりに訪れた家での最初の仕事が、茫々に伸びた庭の草刈りだったのだ。 三日ほどそうして過ごし、居残る高耶のことを気にかけながら、後ろ髪惹かれるようにしていったん直江は帰っていった。 本当に過保護だよな。買い物の心配までするんだから。 きこきこ自転車を漕ぎながら、くすりと高耶は笑いを洩らす。 田んぼの中の一本道は、サイクリングには快適だ。 遮るもののない陽射しがじりじりと肌を焼くけれど、広々とした田んぼの風景と自らまきおこす風のせいで耐え難いほどの暑さはない。 週に一二度、こうして自転車で生鮮品を買出しに行く。 草刈機同様物置から見つけ出した年代物の無骨な自転車は、まだ充分現役で高耶の足になってくれた。 遠くにあの桜が見える。 花ではなく、こんもり濃い緑の葉を繁らせて。 あそこが今は高耶の住処だ。 微風に乗って蝉の声が聞こえてきた。 いまはまだ微かなそれも、桜の樹の下にたどり着く頃には喧しい大合唱になるだろう。 あと、一息。 帰り着いたら、冷たい麦茶を一気飲みだ。 自らを奮い立たせるようにして、ペダルを漕ぐ足に力を込めた。 |