先年、月花草さま宅に、拙作「Precious 誕生日のおくりもの」をもらっていただきました。
以下は、その続編になります。
本当は「僕が遊んであげる」の台詞を書きたいゆえのお話だったはずなのですが。
・・・・・・どんどんどんどん膨らんじゃって、差し上げものだけでは収まらず(苦笑)
結局自分ちで続けることとあいなりました。
月花草さん、こちらに続けさせていただくこと、ご了解くださってどうもありがとうございました。
Precious ―おとなり 4―
課題やらゼミの発表準備やら。
新年度が始まり本分の学業が忙しくなるにつれて、自由になる時間は、以前より減った。 けれど、もやもやした不安や焦燥を、もう感じることはない。 毎日のように高耶に連絡を入れて、都合が合えばご飯をよんだりよばれたりする。 もっとも、こちらに来てもらったところで実際に料理をするのは彼のほうだ。 すぐに直江の部屋のキッチンは、高耶の天下になった。 そんな事情を察してでもいるように、時折、照弘が実家からの託けを持ってやってくる。 春枝手作りの常備菜。檀家から届けられた採れたての旬の野菜やはしりの果物。珍しい菓子等など。 息子へというよりも高耶に食べさせたいと思っているのは明白で、 直江もまた、昔だったらにべもなく断っていただろうそんな届け物を喜んで受け取った。 「まるで所帯でももったようだな」 どさりと荷物を置いて、照弘がからかう。が、直江だって負けてはいない。 「ホンモノの新婚さんが何をおっしゃいますか。このお酒は確かに仰木さんに渡しますから。義姉さんが首を長くして待っていますよ?早く帰ってあげてください」 あわよくばそのまま一緒に飲もうと持ち込んだ逸品を取り上げ、お茶の一杯を振舞っただけで、ぶつぶつ言う長兄を早々に追い返したりする。 鞠のように弾む毎日。 一日一日が楽しくて仕方がない。彼が傍にいるだけで、こんなにも世界の色は違うのだとしみじみと思いしるそんな或る日、 初めて、高耶が直江の部屋に泊まることになった。 「……お父さん、あさってから出張ですか?」 「うん。今日遅いのもその準備のせいだって」 一緒に夕食を摂りながらふとした弾みにそんな話がでて、なんでもないことのように高耶が言った。 もう留守番は慣れっこだし。こうして直江とご飯も食べられるし。だから一晩ぐらい全然平気。 そう言い切る高耶に、むしろうろたえたのは直江の方だ。自分がこんなに傍にいるのに、断じて彼に独りで夜を暮させるわけにはいかない。 拝み倒すようにして、その日は此処に泊まってくれと懇願した。 「え〜?だって同じ建物の上と下だよ?うちで寝たって変わらないじゃん」 「ダメです。外廊下に出て湯冷めして風邪でも引いたらどうするんです?」 「……誰も直江んちでお風呂もらうって言ってないけど?」 「不経済でしょ?独りずつしか入らないのに、違う部屋で別々に沸すなんて」 「…………うん、まあ」 小学生でも高耶の経済観念はなかなかのものだ。しぶしぶと頷くのに勢いづいて宣言した。 「じゃあ決まりですね。きっとお父さんだってそのほうが安心だと思いますよ?」 果たしてその通りで。仰木はむしろ恐縮しながら高耶の外泊を了承してくれた。 そんなこんなで、高耶がパジャマと着替えだけの簡単な荷物と一緒にやって来た金曜の午後。 浮き立つような気分で、直江は訊ねたのだった。 「夕飯は外に食べに行きましょうか。高耶さんは何がいい?」 いつもいつも世話をかけている、ささやかながら御礼のつもり。 そんな気持ちを込めたのに、逆に高耶は強請るような目で直江を見上げてきた。 「いつもみたいに、此処で作っちゃダメ?オレ、挑戦したいメニュウがあるんだけど」 「は?……それっていったい…?」 怪訝そうに問い返す直江に、それはそれはわくわくした顔で、高耶が言った。 「トンカツ!すっごく分厚いの!」 すっかり馴染みになったスーパーの精肉コーナーで、一切れ二百グラムはあろうかという大きさにロース肉を切ってもらった。 高耶はカートを押しながら、他にも目ぼしい食材をカゴに放り込んでいく。 「揚げ物はひとりじゃ危ないからってずっと許してもらえなかったんだ。テンプラとかコロッケとか、食べたくなったら買って来なさいって言われてて。 でも、ずっと自分で作ってみたかった。揚げたてのトンカツ。直江がいてくれればひとりじゃないから構わないよね?」 そんな確信犯の笑みには苦笑で応えるしかなくて。 この日の夕食の仕度も、やっぱり高耶が仕切ったのだった。 こんがりと見た目きれいに揚がったカツレツは、あいにくと中が少々生っぽかった。 レンジで再加熱して事なきを得、直江はその出来映えに充分満足したけれど、高耶にとっては屈辱だったらしい。 火加減か時間の問題なのか、食事の間中ぶつぶつ反芻しながら、再度のリベンジを誓っている。 それでも、デザートのアイスを食べる頃にはその不機嫌もすっかり収まって、直江はほっと胸を撫で下ろす。 食器を片しながら、茶菓子をつまんでテレビを見ながら、ふたりで寛いだ時間を過した。 今日は彼を帰さなくてもいい。これからの長い夜の時間をまるまる独占できるのだという安堵から、何時にもまして直江は饒舌になった。 よくもまあ、話題が尽きないものだと我ながら呆れるぐらい次から次へと話は飛んで弾んでとにかく楽しくて。 気がつけば時計の針はとうに九時を回っている。 慌ててお湯を張って交代でお風呂に入った。 後は休むばかりになってしまっても、まだこの至福のひとときを手放しがたくて。 もう少しだけ布団の中でお喋りをと、自分の部屋に高耶を誘った。 おそらくは、高耶も同じ心持ちでいてくれたのだろう。二つ返事で頷いて、いそいそと自分の枕を抱えてやってきた。 「ベッドって久しぶり。直江のとこのはふかふかだね」 嬉しそうにスプリングの具合を確かめながら、上掛けの中に潜り込む。 フットライトだけを残して灯りを消し、直江もそれに続いた。 「……本当に高耶さんは背が伸びましたね。頭の位置が全然違う」 高耶と横向きに向き合って肘枕をして、見下ろす目線の感じがずいぶん変わったのに気がついた。思わず呟くのに呆れたように高耶が応える。 「なにそれ?何時の時と比べてんの?」 「……あれは…まだ一年生でしたか」 「な〜お〜え〜」 大きくもなるわけだ。恨めしそうな高耶の声に苦笑しながら失言を詫びた。 もっともあれ以来、高耶とこうして添い寝することはなかったのだから、実感する機会もなかったわけで。 口では謝りながら、またこうして高耶と過せる幸福を噛みしめる。 勢い、寝そべりながらのお喋りは、離れていた間の昔話になった。 始終手紙のやり取りはしていたから、直江も、高耶の日常の一部は共有している。 そういえば、あれはどうなりました?これはどんなだったの? そんな風に問い掛けて、高耶も懐かしそうにひとつひとつ応えてくれて。 そうやってぽつりぽつりと話しているうちに、高耶の声が不意に途絶えた。 「……?」 開きすぎた不自然な間に、記憶を辿っているのか、或いは寝入ってしまったかと何気なく窺って、心臓がとまるかと思った。 視線の先の高耶が、肩を小刻みに震わせて懸命に嗚咽を堪えている。 「高耶さんっ!?」 瞬間、気づかれたと、高耶も気づいたのだろう。 激しくかぶりを振りながら直江のパジャマ地を鷲掴み、ぐいぐいと顔を胸元に押し付けてくる。 見るな、と。 裡に踏み込んでくるな、と。 縋りながら拒絶するその仕種は、何より雄弁な彼の意思。 その思いが痛いほど解かったから、問い詰めることはしなかった。 代わりに背中に腕を回して緩く囲い込む。 見つめられていることさえ苦痛かもしれないと目を逸らして、静かに、それまで詰めていた息を吐いた。 そんな直江の気配が伝わったのだろう、張りつめていた緊張の糸が切れたように、押し殺していた高耶の嗚咽は、切れ切れのすすり泣きに変わった。 こんな激情の発露に一番驚いているのは、彼自身かも知れない。高耶だって、泣くつもりはなかっただろうからと、直江は彼の心情を推し量る。 絶句する直前までしていたのは、当り障りのない思い出話。 辛さとも哀しさにも繋がらない記憶。 自分はもちろん、高耶もそう信じ込んで、だからこそ無邪気な会話が成り立っていたのだ。 だけど、そうではなかった。 あんなことがあった。こんなことがあった。 ちょっとだけ悔しかったし、少しだけ悲しかった。 日々暮す日常の中で繰り返し起こる、そんな、感情のさざなみ。 誰かに聞いてもらえばそれで収まる気持ちの揺れを、おそらく高耶はひとりで抱え込んでいた。些細なことだからと、時間がたてば忘れると、そうひとりで判断して。 そうやって彼が降り積もらせ、癒えたはずの想いが、高耶自身をも裏切って、突然、生々しく軋みをあげて噴きだした。他ならぬ自分の傍らで。 一抹の寂しさを覚えるほど成長したと思っていた。 自分の手の届かないところで、父親を助けて家事まで切り盛りする大人びたしっかり者に育ったと。 それは嘘ではない。確かに高耶の一面だけど。 でも彼は。 歳相応の傷つきやすい子どもの心を置き去りにしていただけだ。たった一人の父親にも、遠く離れた自分にも心配をかけないように。 きっと、自分の抱えた淋しさを自覚することさえなかったのだ。溢れ出したこの瞬間まで。 「ずっと、独りで我慢していたんですね……」 怯えさせないようことさらにゆっくりとその髪を撫でた。それでも肩を揺らすのに、宥めるように囁きかける。 「吐き出してしまっていいんですよ。……全部吐き出してしまって、そして、忘れておしまいなさい。……私も忘れるから」 今夜のことはもうこれきり。後に引くことは決してないから、と。 だから、安心して泣いていい。 抱えた頭が微かに動く。何度か大きく息をして、最後に、長い長いもがり笛のような音を立てて、高耶の喉が鳴った。 胸に埋めた顔はそのまま、堰を切ったような慟哭が始まった。 もう少しだけ泣いて、やがて高耶は眠りにつくだろう。 その眠りは、心穏やかなものではないだろうけど。年頃の彼にとって、思いがけなく曝した自分の醜態は羞恥以外のなにものでもないだろうから。 それでも、激情に揉まれた心は、疲れきって程なく闇に沈むだろう。 そんな彼を誰にも触れさせない。 高耶の柔らかな心を曝す唯一の居場所。 高耶が無意識に選びとるその場所が、自分の傍らであることに、直江は限りない幸福を覚えた。 |