千のカレット
―3―





身振り手振りの意思の疎通から始まってようやく片言を操れるようになった頃、彼の呼び名を訊ねたことがある。
タカヤ、と、彼は答えた。
あまりに自然に返されたから、キメイという自分の名同様、ずっとそれが彼の通り名なのだと思っていた。
真実の名は秘されるべきもの。みだりに他人に明かしてはならない。
それが此処の不文律でもあったから、ふとした弾みで彼の持つ名がそれひとつなのだと知った時には、ひどく慌てた。
名を知られるのは心をまるごと差し出すのと同じこと。むやみに言葉を作り声に出してはどんな災厄を呼び寄せるかしれないのに、 その大事な名を何度も気安く口に載せていたなんて。
己の迂闊さにうろたえる自分を励ますように、彼はゆったりとかぶりを振った。
大丈夫。 この名前はただの音の連なり。彼我を識別する標以上の価値はない。 だからどれほど呼んでくれてもキメイの心配するようなことにはならないと。
それでは、彼の世界の名前とはそれほど軽いものなのだろうか?
そんな疑念が貌に出たのか、彼はもう一度、今度は微笑みながら首を振った。
確かに名前そのものには、持ち主を縛る力はないけれど―――でも、魔力ことだまが宿ることはある。
たった一人が呼ぶ時だけ。
そいつが呼ぶ時だけ、この名前は癒しにも呪縛にもなるのだと。
そう、彼は遠い瞳をして言った。
此処にはいないその誰かをいとおしむような 柔らかな表情に、なぜだか胸が疼いた。






庵よりもさらに森の際、海へと続く小高い丘に、今は廃墟となった星見の塔がある。
ひとつの季節が巡る間を庵で過ごした後、傷の癒えた彼は其処に移った。
数世代前に名の知れた賢者が住まったという石造りの建物は、あちこち崩れかけてはいてもまだ雨露はしのげるし、 丘には良質の草が育つ。 森に近い所為で手付かずだった天然の牧草地に、誰かが居ついて 牧童をしてくれるなら願ってもないこと。
村人たちが諸手を上げて賛同した婆の口利きに、キメイだけは浮かぬ顔だった。
これでは態のいい追放と変らない。この地に不慣れな彼にはずいぶんな仕打ちのように思えたのだ。
あれほど森と異形に怯えていたこの娘が、異形そのものであるはずのマレビトを真摯に案じる様子に、婆は不思議な微笑を浮かべた。
「厄介払い―――と思っておいでか?あのお人を此処から送り出したのが」
師匠である婆に真っ向から意見を言うのはまだ躊躇われる。 否定も肯定も出来かねてただ黙って見つめてくる弟子に、婆は 含めるように語ってきかせた。
彼は―――彼に限らずマレビトとして落ちてくる存在は、本来、違う時間の流れを生きているもの。係わりすぎないのが互いのためだと。
婆の言い分が正しいのは解っていた。
たとえば、何故彼が夜更けにふらりと外へ出るのか、長い時間を何を思って佇むのか。
自分たちが踏み込めない部分を確かに彼は持っている。
それでも―――寂しくないのだろうかと、思うのだ。 知らない世界に迷い込んでその上、わずかばかりの人の気配とも決別するのは。
婆が遠まわしに言うように彼にとっては余計なお世話かもしれないし、少女期特有の感傷と切り捨ててしまえばそれまでだけど。
黙り込んだまま俯いてしまったキメイを宥めるように婆が付け加える。
「もっともあのお人も食べなきゃならん。しばらくは麺麭パンを届けにいっておやり。他に入用なものと一緒に。おまえが厭でなければね」
最後に投げ返されたこの提案にキメイは頷き、それでこの話はお終いになった。


その夜、キメイは夢をみた。

丘の中腹、今は彼の宿坊となった星見の塔の上に、彫像のように立ち尽くしている彼の姿がある。
おぼろな星明りが背景すべてを黒々としたシルエットに変え、 顔の造作などとても見分けられないはずなのに。不思議とそこに浮ぶ表情だけははっきりと解る。 彼はひどく真剣な瞳をして虚空を見つめていた。
ふわりと両腕が持ち上がる。夜の大気を抱き取るように。
金色の光が揺らめきながら彼を取り巻く。 彼の身体から滲みでる細かな光の微粒子が、束の間彼の周囲を漂い、導かれるように夜空へ立ちのぼっていく。
還れない彼に代わって、 彼の想いを天に届けるように。

「―――」
彼の唇が音を紡いだ。
聞き取れないそれは、確かに言霊であり祈りの言葉だった。

滂沱とあふれる自分の涙で目が醒めた。
夢というにはあまりにも生々しい彼の心の叫びまでが聴こえてきそうな光景に、胸のどきどきがいつまでも収まらない。
或いはそれは、キメイ自身も気づかぬうちに行なった遠見の現実かもしれなかった。






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何処に飛ばされても、女こどもに懐かれる高耶さん(笑)








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