穏やかに日々が過ぎていく。 まるで生まれたときから此処でこうして暮らしているかのように彼は丘の風景にしっくりなじみ、彼の世話するヒツジたちも皆健やかに育っている。 週に二度、キメイは彼に麺麭と乾酪と葡萄酒を届ける。干し肉や果物の蜜漬けや手織りの衣類など、村人から託された心尽くしの品と一緒に。 次第に深まる彼への好意、その証でもある品々を、彼は軽く頭を下げ、自然な仕草で受け取った。 そして、ごくたまにそれらに加わるもうひとつのもの。 波と砂に磨かれた竜涎香の小さなかけら。 滑らかな光沢を放つ琥珀。 色鮮やかな鳥の羽。 初咲きの花に宿った朝露の雫を集めた硝子の小壜。 とりどりの季節の花冠。 どきどきしながら、最後にそっと差し出すキメイ自身からの贈り物を、彼は掌に載せ凝と見つめて、やがて小鳥を囲うようにやわらかく包み込む。 ありがとう、と、小さく笑みを刻んで。少しだけすまなそうに。 海や大地の精髄と祈りを封じたその護符を仕上げるのに、キメイがどれほどの精神力を使うかを、彼は察しているから。 そのくせ、ちっとも気づいてくれようとはしないのだ。 少しでも彼の役に立つことが、今のキメイの無上の歓びなのだと。 黄金色の光は彼の魂そのもの。 彼は生命の輝きを祈りに変え天に向けて放っているのだと、あの夜、唐突にキメイは悟った。 白楊が空に綿毛を飛ばすように、 孤島に流れ着いた船乗りが壜に入れた手紙を海に流すように。 万にひとつでも彼の想いがあちらに届くことを願って。 ひどく心もとないけれど、それが、彼という存在が此処にあることを知らしめる、唯一の手段だから。 確証はない。救いの手は生涯こないかもしれない。 それでも、彼は還りたいのだ。その身を削ってでも。 其処で彼を待っているたった一人のために。 その誰かのもとに彼を帰すことは出来ないだろうか。 そうするためには、自分は何をすればいいのだろう。 ひとりで考えるにはあまりに漠然として難しすぎて。 結局、キメイは、婆に自分の気持ちを打ち明けた。 呆れられるかと思った。叱責されるかとも覚悟した。 師匠に見下げられるのは身の竦む思いがしたけれど、彼の抱える孤独に比すれば何ほどのことでもない気がした。 婆は、謎めいた不思議な微笑を湛えながら、訥々と胸のうちを曝す愛弟子の言葉を聞いていた。 あの、風の音に怯えた夜と同じように。 最後に沈黙が降りた。 ぷつぷつと煮立つ鍋の音と。薬種を細かく砕く薬研の音と。 二人それぞれの手仕事だけがしばらく進んで、やがて、今度は婆が語りだした。 賢者や妖術師や呪い師。それぞれに呼び名や扱う魔法の種類は異なっていても、その源は同じ。 己自身の魂の力と、己の属する大地の力を拠所にしている。意識せずとも、彼らは自然に偏在する力を身のうちに取り込むすべを心得ている。 「おまえさんも含めてね」 当たり前のようにそう言われて、キメイは飛び上がった。婆はともかくまさか自分まで一緒にくくられるとは思わなかったのだ。 そんなキメイの反応に婆は片眉を大袈裟にあげてみせた。 「おやおや、何のために泣き虫だったおまえさんを村から連れてきたと思っていたんだい?その素質を見初めたからに決まってるじゃないか」 でも、と、キメイは口ごもった。 薬を作る技や知識はそれなりに身についた。水汲みや糸紡ぎや日々の仕事でも婆の助けにはなっているとは思う。 自分に期待されているのはそうした役割り、婆の傍らで医薬の術を学び受け継ぐことで、 それ以上のこと、まさか婆が自分に魔術師の才を見出していたなんて考えてもみなかった。 「出来ない。自分には絶対無理だ―――あの時みたいに、そう思っておいでかね」 悪戯っぽい笑みが浮ぶ。が、それも一瞬、すぐに婆は真顔に戻った。 「でもおまえのその力が、あのお人の助けになるとしたら?それでも無理だと尻込みしたまま竦んでいるつもりかえ?」 試すような茶化すような口調でいながら、続くその言葉は恐ろしいほど真剣だった。 丘の上のあのお人は、確かに大賢者に匹敵する凄まじい力を魂に秘めている。 だからこそ、異郷にいながらああして思念を虚空に飛ばすことも出来る。 けれど異分子である彼に、此処の大地は力を貸さない。彼は限りある己の生命の炎だけを頼りにそれを削り続けなければならない。 いずれ力尽きるか、祈ることを諦めるまで。 でも、キメイなら大地の力を彼に橋渡すことができる。 此処の世界の精霊の力を護符に集め封じて、なおかつキメイ自身の祈りで包みこめば、それは彼にも扱うことが叶う力に変じると。 きつい仕事だが試してみる気はあるかと、再び問われて、キメイに否やはなかった。 真っ直ぐに背筋を伸ばし気迫を込めて頷く姿は、もうおどおどした気弱な少女ではない。 未熟ながらひとりの女魔術師が誕生した瞬間でもあった。 |