森がざわめく。 木々の梢が揺れて擦れて潮騒の音を丘に運ぶ。 一面にはえる草の細い葉先がざわざわしなって翻り、波のようにうねっては、風の流れを遥か先まで写しとる。 大海原と化した緑の大地に、彼はすっくと立っていた。 この風は予兆。 びりびりと張りつめたものが、大気にも大地からも感じ取れる。 今日がその日なのだと、彼にもキメイにも解っていた。 異界への口が開く。 森ではなく、この丘に。彼を取り戻すために。 だからこそ、彼は不安げに鳴き交わし彼に寄り添うヒツジたちを麓の囲いにいれると、一人、丘の上まで登ってきたのだ。 彼に託されていた大事な存在に、万が一にでも危険が及ばないように。 キメイだけが彼の後に随った。 ここまで来て蚊帳の外に放り出されるつもりはない。 最後まで見届ける決意もあらわについてきたが、丘の突端、もうすぐ海が臨めるあたりで彼は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。 自分に向けられる漆黒の瞳。微かにかぶりを振る仕草。 穏やかながら、それが彼の意志。これ以上立ち入ってはならないと。 恫喝ではない。あからさまな拒絶でもない。彼はいつもそうしていたように静かに佇んでいるだけ。 けれど、彼から伝わる厳かな気迫に、縫いとめられたように足が止まった。 キメイから充分な距離を取って、彼は再び立ち止まり天を仰いだ。 全身から、彼のオーラが立ちのぼる。彼自身を最後の狼煙、最後の道標にするために。 にわかに勢いを増した風がくるくると彼の周囲に渦を巻いた。 はじめ戯れるようだったそれは、意思あるもののようにするりと彼から離れ、見る間に育って巨大な旋風となった。 凄まじい風圧と轟音。 目も耳も口も。五感すべてを塞がれているかなような圧力に逆らいながら、懸命に足を踏ん張り、風の渦を見据える。 涙で霞む視界が、突然、揺らいだ。 風の中にもやもやとした影が見える。異界への口が開きかけているのだ。 ぶれたりかすれたりを繰り返しながら少しずつ鮮明な輪郭を為していく 渦の中の人影は、ずいぶんと背の高い男の人のようだった。 「直江っ!」 突然、彼が声を発した。魂消るばかりの渾身の叫びだった。 「高耶さん!」 紛れもない彼の名を呼ぶ声が重なる。 では、このひとがそうなのだ。彼の名前に魔力を宿せる唯一の人なのだと、キメイは思った。 そして―――彼は口にはしなかったけれど、この人の『直江』という名に力を与えられるのも、おそらく彼だけなのだ。 なぜなら、その対になるふたりの言霊によってそれまで不安定だった異界の口が完全に繋がったのだから。 相変らず、触れるものすべてを切り刻む激しさで、風は渦を巻いている。 けれどそんなものは目もくれずに、彼はその中心にいる人影めがけて飛び込んだ。 大気がかぎろぎ、渦が窄まる。時空の裂け目が修復されようとしている。 すべてが飴細工のように歪んでいく刹那、 不意に彼が顔をあげ、こちらを振り返った―――気がした。 そして次の瞬間、彼らの姿はキメイの世界からかき消えていた。 「無事にお戻りになったかね?」 問い掛けられて我に返った。いつのまにか、婆が傍らに立っている。 地面にへたり込んでいたキメイは、しばらく馬鹿みたいに婆の顔を見上げて―――それから、こくりと頷いた。 ぽろぽろと涙が零れた。 彼の希いは叶った。それはとても喜ばしいことのはずなのに。 もう此処に彼はいない。二度と逢えないのだという事実が今さらながらに胸に迫ってきた。 それなのに、自分はろくにさよならも言えなかったのだ。それが悔しくて、悲しくて切ない。 泣きじゃくりながらの繰言を、キメイの隣りに腰を下ろした婆は、 相槌を打ちながらただ黙って聞いていた。 この娘はあまりにも長く彼に接し、あまりにも深く彼に入れ込んだ。 千々に乱れた感情に収まりをつけるのには、まだしばらくの時間が要る。 いずれ、キメイは自覚するだろう。 彼のために尽くし無心に祈った数年間が最上の年月であったこと。 彼の存在が、自らの資質を大きく開花させる触媒の役割を果たしたことを。 彼と遭ったこと。彼を還したこと。そのすべてに意味があったのだと。 今は、喪ったものが大きすぎて、嘆き悲しむことしかできないにしても。 「それにしても、おまえさんはよくやったよ」 そう最後にねぎらって、婆は、彼女の大事な弟子の頭を愛しげに抱き寄せた。 ふたりの座る緑の丘には、囲いから放したヒツジたちが気ままに草を食んでいる、いつもと変らぬのどかな風景が広がっていた。 |