進学のために高耶がこの街に移り住んでから一年余り。 この家に間借りを始めたのはこの四月から。 ちょうど年度末で学寮の学生たちが入れ替わる時期に、藤澤からバーナムの世話をしてくれる条件で一室を提供する申し出があったのだ。 家賃は不要、光熱費も家主持ち、そのうえ某かのバイト代も払うと言われて、あまりに破格の好待遇に返って腰が引けてしまったが、 藤澤は藤澤で、勤務先から出張の多い業務を内示されているという切実な事情があった。 ペットホテルを苦手にしている愛犬に度々の負担を強いるより、いっそ泊り込みのドッグシッターを頼んだほうがいいと、そういう理屈であったらしい。 そのシッターを気心の知れた高耶が引き受けてくれるなら、これ以上の安心はないからと、拝むように頼まれて断りきれなかった。 いざ引越しという段になって、今度は寮の仲間内から異論が出た。 あまりにも美味しすぎる話に不審をもたれたのだ。 犬の世話という名目があるとはいえ、普通、赤の他人を自分の家に住み込ませたりしないだろ?とか、 中年男の一人暮らしなんだろ?なにか疚しい下心があるんじゃないか?とか。それはもう、シモネタ全開、姦しく、赤裸々に。 なにしろアルコールの入った酔っ払い同士の会話だから遠慮もなにもあったものではない。 一人高耶が、藤澤さんはそんな人じゃないっ!と反論してみてもむしろ逆効果で。 なんだ、おまえ、そういうシュミなのか?残念、俺も狙っていたのに等々と、いっそう悪乗りに拍車がかかる始末。 ついにキレた高耶が、数人相手に殴りかかるというオチまでついてしまった。 藤澤の身上について、たとえば親戚の叔父とか父の友人とか一言で済ませられる間柄であったらば、そこまでこじれなかったのだろうけど。 語るのが面映くなってしまうほど長ったらしい説明をつい躊躇ってしまったのが、話をややこしくした原因だった。 高耶と藤澤は直接の知己ではない。 多少とも縁のあるのは藤澤の亡くなった妻、加奈子の方で、それも高耶自身ではなく妹の美弥が、以前音楽講師をしていた加奈子の教え子の一人だったという、ひどく持って回った関係だった。 十年も前、子どもの頃の話だけれど、加奈子先生を慕っていた美弥は、彼女が転任した後も文通を続けていたらしい。 が、次第に間遠になり、賀状のやり取りだけになり、それも三年前についに途切れた。 加奈子の喪中を知らせる葉書が届いたのだった。 大好きだった先生の訃報を知らされて美弥は塞ぎこんでしまったけれど、普通はそこで終わるはずの話だった。 二年後、高耶がめでたく志望大学に合格して、その地に赴く前の夜。 美弥はおずおずと一枚の紙片を高耶に託した。 偶然にも高耶の住む予定の学寮と同じ市内のとある住所。葉書の住所だった。 ちゃんとお別れがしたいのだと、美弥は言った。 あの時はどうしようもなかったけれど、同じ街にお兄ちゃんが居るなら美弥だって行けるはず。加奈子先生の旦那さんに頼んで、一度お参りさせてほしいのだと。 そんな美弥の気持ちを汲み取って、まずは自分が一度訪ねて確かめてくるからと、そう約束した高耶だった。 四月、五月はあっという間に過ぎ去った。 ようやく気持ちに余裕の出てきた六月の日曜日、高耶は意を決して件の住所を尋ねてみた。 まずは目当ての家を捜すだけ、チャイムは鳴らさず、その日は遠目から確認するだけのつもりだったのに。 「なにか御用ですか?」 「ワンワンッ!!」 突然、後から声を掛けられて飛び上がった。 振り返れば、散歩の途中らしい男性と小型犬の姿。 それが、藤澤とバーナムとの出逢いだった。 |