一陣の黒いつむじ風のようだった。 華やかな大路から一本はずれた川べり。 人通りもまばらなその道を夜遊びの余韻を楽しむようにそぞろ歩いていたところに、 横合いの路地から飛び出してきた小さな影がどすんとぶつかってきた。 「!?」 もちろん突き飛ばされるほどの衝撃ではなかったけれど、驚きに足が止まった。 ぶつかってきたモノを呆然と見下ろしてそれが辺りによくいる野良犬などでなく人間の子どもだと認知するのとほぼ同時に、 今度は誰何しあう声とどたどたと入り乱れる足音が耳に届いた。 足元に蹲ってしまったその子どもが、びくりと身じろいでいざりながら背後に回る。姿を隠しきれるわけではない。 それでもすぐそこまで迫ってきた災厄から少しでも距離と遮蔽を置きたいと、そんな風情で。 果たして子どもと同じ路地から数人の男が走り出てきた。 道端に突っ立ったままの自分とその背後の子どもを見つけわっと喚声を上げ、取り囲む。 口にする陳腐な台詞といい、知性の感じられない面相風体といい、 どう見ても人に道具として使われるしか能のない三下だ。 ひょろりとした書生姿の自分のことを与し易すしと看たかそれとも数を頼みにしているのか、男たちは子どもを渡せと口汚く凄んできた。 さてどうしようかと、直江はふっと嘆息した。 もちろん子どもを置き去りにこの場を離れれば穏便に済む。 もともと係わりのない他人事、後味の悪さに目を瞑ってしまえば面倒なことにはなにもならない。 けれどこんな連中に侮られその言いなりになることが、少しばかり癪に障るのもまた偽らざる思いだった。 相手は三人。刃物を出されないとも限らないし、どんな手順で叩きのめすのが一番効率的だろうか。 優しげな顔立ちの下でそんな物騒な算段をしていると、視界の端にまた新たな人影が加わった。 恰幅のいい紳士と、護衛のように付き従う隙のない身ごなしの男。 察するにこの連中の兄貴分と黒幕といったところだろうか。 顔までは窺えないが紳士の胸元きらりと光った金鎖に直江は記憶を刺激される。 (この男は確か……) 兄の供をした政治家の夜会の席で見掛けたことがある。 汚い商売をする同業者だというその男のことを、兄はひどく嫌っていたが。 確かめるつもりで、わざと 場にそぐわないのんびりとした口調で声をかけた。 「草加さんじゃありませんか?」 当然だが応えはなかった。ただこんな場所で見知らぬ相手の口からおおっぴらに名を呼ばれたことへの不審と不快とがそのでっぷりとした体躯からにじみでるようだった。 直江はさらに言葉を重ねる。 「お忘れですか?橘の弟で義明といいます。以前に一度、若生先生の音楽会でお目にかかったことが…」 あえて素性を明かした効果は劇的だった。表情は見えずとも動揺している様子がひしひしと伝わってくる。 ここで直江はさらに一押しした。申し訳なさそうに肩をすくめながら、後ろを見遣る。 「この子どもと私どもにはいささかの因縁がありまして。なにかご迷惑を働いたのでしたら、兄を通して後日改めてお詫びに伺いますが……」 あくまで下手にでた直江の態度に取り囲む男たちが勢いづいた。 が、草加と名指しされた紳士は唸るように一言、人違いだと言い捨てて、そそくさと路地の暗がりに消えていった。 一瞬遅れてもうひとりの男が後に続く。顎をしゃくり手下に引き上げの合図をしながら。 訳が解らないまま、それでも古典的な捨て台詞を残し男たちも走り去って、 川べりの道は、再び静寂に包まれた。 ふっと、直江が息を吐いた。袴地をぎゅっと握りしめている小さなこぶしの主に向って。 「もう隠れてなくてもいいみたいですよ」 それでも子どもは動く様子もなく握ったこぶしも解かれなかった。 もうひとつ、直江が息を吐く。ゆったりとした仕草で後ろを向きしゃがみ込んだ。そうして間近に見て初めて、この子が男の子であったことに気づく。 五つか、六つか、粗末な着物もそこからのぞく手足もずいぶんと汚れて傷だらけだった。 「おうちはどこ?送っていってあげる」 まだ俯いたまま、子どもは小さく頭を振った。 内心そんなことではないだろうかと思っていたから驚きはしなかった。 けれどただの浮浪児に草加が係わるわけもない。兄の名に怯んだとなればそこには何か後ろ暗い事情があるに決まっているし、 生き証人であるこの子どもを押えておけば商売敵を出し抜く格好の糸口になるだろう。この際、兄にひとつ貸しをつけてやるのも悪くない。 「じゃあ、一緒に来る?」 こくんと子どもは頷いた。が、一向に立ち上がらない。 やれやれと四度嘆息しながら、向きを変えて背中を差し出した。おずおずとおぶさってくるのを待って揺すり上げる。 苦になる重さではなかったが、歩き始めて程なく、しくしく泣き出されたのには閉口した。 成り行きとはいえ厄介な拾い物をしてしまったと、ちらりと後悔の念が頭をよぎった。 下宿に連れ帰ったとしてもこんな子どもの面倒を見るのには自分ひとりの手に余る。かといってよろず格式ばった兄の家に、いきなり放り込むのも気が引ける。 どうしたものかあれこれ考えてふと名案が浮び、直江は今来た道を引き返す。 尋常ならざる目に遭って怯える今のこの子に必要なのは、不安をなだめてくれる優しい手。濃やかな心遣い。 ならば、無骨な男の自分よりも打ってつけの人材がいるではないか―――と、そんな理屈を組み立てて。 やがて残月楼の門口を照らす、ほのかな灯りが見えてきた。 |