十六夜太夫といえばこの界隈では知らぬものとていない残月楼お抱えの芸妓だけれど、
正確に言えば彼女はもう『太夫』ではない。 年季はとうに明けて店に縛られているわけではないからだ。 自由なはずの彼女が何故いまだ残月楼の離れに住み暮らしているのかというと、それは 「気楽だから」 だそうで。 彼女を口説こうとするたいていの人間がそのあまりな理由にあんぐりと口をあけ二の句を継げないでいるうちに、十六夜はにっこり微笑んで続けるのが常だった。 「だって、ねえ、今さら所帯を持つ気はありませんし、旦那方の世話になる気もありませんし。そんな女の一人暮らしなんて、無用心で仕方ないじゃありませんか。 ここなら男衆がいてくれて安心だし、煩わしいご近所付き合いも、訳ありの女だとつまらない噂を立てられることもありませんもの」 そうきっぱり言い切る十六夜は、若い妓たちに芸事を仕込んだり旧い馴染みの出稽古に赴いたり、時々は女将たっての懇願で宴席に華を添えたりする悠々自適の日々を送っている。 そんな彼女の下ならば、数日子どもを預けたところでさほど苦にはされないのではないだろうか。 そう直江は考えたのだった。 「あら、まあ」 果たして、十六夜は、 再び出戻ってきた情人の姿に、ことさらに柳眉をつりあげて見せた。 「義明さんったら、ほんの一刻ばかりの間にずいぶん大きな子を拵えたこと」 「……拵えたんじゃありません。拾ったんです。詳しい話をしますからとにかくもう一度上げてもらえませんか?」 そんなやり取りのあった暫しの後。 背中で眠ってしまっていた子どもは無事に座敷の布団に寝かされ、直江は後日の迎えを約して帰っていった。 次の訪いはその十日後。 多忙の長兄をようやく捉まえ事情を話し善後策を練って、さてようやく本人を引き取ろうと離れに通されてみれば、 自分に向けて深々と頭を下げているのは禿の衣装をまとった女の子、その顔立ちも華やかな絹の色味に負けず劣らず愛くるしい。 無意識に先夜の身なりの男の子を思い浮かべていた直江は、預けたはずのその子の姿を探して棒立ちに突っ立ったままきょろきょろ視線を彷徨わせる。 その様子に、手を打って十六夜が笑った。 鈴を転がすような、楽しげな笑いだった。 「ほ〜ら。やっぱり解らない。本当に殿方っていうのは見る眼がないんだから。お探しの子は目の前にいるじゃありませんか」 「え…?だってこの子は……」 匂い立つ白桃の頬。黒目がちの大きな瞳。小作りに整った鼻筋、花びらのような唇。 改めて見つめ直したその顔は、 どう見ても人形のように可愛らしい少女のものだ。 けれど、見覚えのないその女の子は、自分のことを見知った相手でもあるかのように感謝と含羞と憧憬のこもった眼差しで見上げている。 もしや。 いや、まさか。 惑乱する直江の心を知ってか知らずか、少女はまた静かに畳に手をついた。 「あの夜は助けていただいてありがとうございました」 まだ信じられないが、そんな礼を述べるからにはやっぱりこの子はあの時の男の子なのだろうか。 子ども特有の甲高い声では男とも女とも判別がつきかねて、直江は、助けを求めて十六夜を見遣る。 興味津々笑いをかみ殺しながらふたりの様子を見守っていた彼女は、心得たようにひとつ頷いて見せた。 「この子は間違いなくあなたが連れてきたお子ですよ。高耶ちゃんというのですって。あいにく此処には女物の着替えしかないでしょう? 試しに着てもらったらあんまり似あうものだから、誰も男の子だと気づかないのよ」 くすくすと楽しげに説明していた十六夜は、ここで急に居ずまいを正した。 「ねえ、義明さん。そこで相談なんですけど。まだまだきな臭いことは続くのでしょう?このまま高耶ちゃんを此処においてはいけないかしら? 娼家の女将がこれはと見込んだ子を禿として引き取るのはよくあることだわ。それに万一探りがかかったとしてもこの街なら怪しげな人物はすぐに炙りだせる。……匿うなら最適の場所だと思うのだけれど」 いかが?と問われて直江は考え込んだ。 確かに名案だと思う。でも、ただひとつ問題があるとしたら――― 「あの、………高耶さんはどう思うの?女の子の格好でも平気ですか?」 『きみ』も『おまえ』も、ましてや『ちゃん』付けもそぐわない気がして、しばらく言いよどんだ末に直江はこう呼びかけた。 その呼びかけに高耶は吃驚したらしい。肩をびくりと震わせてまじまじと直江を見る。そしてぱっと視線を逸らした。 「……あの、平気です。太夫と旦那さまのお許しがあるなら、此処にいたい……です」 消え入りそうな声で答えながら、十六夜と自分とをおずおずと見比べている。 その不安げな様子にこの子の育ちを垣間見る気がした。おそらくこの離れは彼が初めて得た安息の地なのかもしれない。 まだこんなに小さいのに。 思いもしなかった強い憐憫の情が湧きあがってきた。 それは十六夜も同様なのだろう、力づけるように高耶の袖を撫でさすっている。まるで親子か姉妹のよう、すでに固い絆で結ばれてしまった様子のふたりを前に、直江はひとつため息をつく。これでは自分の出る幕はないじゃないかと思いながら。 「ではそのようにいたしましょう」 せいぜい重々しく言質を与えて高耶の顔が輝くのを見届けてから、直江は付け加えた。 「それと、高耶さん。『旦那さま』はやめてくれませんか。私のことは『直江』でけっこうですよ」 そう言わせたのは十六夜に対する敵愾心からかもしれない。 『旦那さま』ではいつまでもよそよそしい。 高耶の心を掴むのに、すでに一歩も二歩も先んじている彼女に追いつくには、ごく内輪での通り名で呼ばせるのが手っ取り早いと思ったのだ。 「………」 唇だけで音をつくった高耶は目上の大人を呼び捨てることに抵抗があるのか、困ったように十六夜を見上げる。 その十六夜が微笑んで頷くのにようやく安堵したらしい。 「はい」 とだけ返事をして、にっこり笑う。 それは、高耶がはじめて見せた子どもらしい笑顔だった。 つかずはなれずの淡白な歳下の情人だった直江と十六夜の関係は、この日を境に少し変った。 高耶の庇護と秘密を共有する者同士として、直江は以前にもましてこの離れに足繁く通うこととなったのである。 |