物心ついてからの高耶の記憶はあいまいにぼやけている。 思い出せるのは、いくつかの断片。 それはすくみ上がるほどの怒鳴り声であったり焼けるような痛みであったり、時々は泣きながら庇ってくれる温もりだったり。 暗くくすんだ日々を、いつも怯えながら暮らしていた気がする。 その恐ろしい『小父さん』が、ある時、急に猫なで声を出した。 縁日でおもちゃを買ってやるという。 いらないと 首を振ったけど、『小父さん』の言うことは絶対だった。 急かされながら家を出て、でも不安で仕方なくて。 何度も後ろを振り返った。 振り返るたび遠くなる長屋の門口に、『ねえや』が泣きながら佇んでいた。 その姿が次第に小さくなるのが心細くてたまらなかった。繋がれた手を振り払ってでも傍に戻りたかったけれど、 まるで逃がすまいとするようにがっしりと大きい大人の手はきつく自分のそれを握りこんでいて。 引きずられるように歩かされて、やがてあたりは身知らぬ別の街の風景へと変っていった。 賑やかな人ごみ。 雑多な匂い。 どこかで何かを食べさせられたけど、それがどんな味だったかも憶えていない。 ただ、ぐるぐると目の回るような不思議な感覚だけがずっと続いていた。 次に鮮明になるのは、とっぷりと日の暮れた路地裏。 あの威張りんぼの『小父さん』が数人の男たちにぺこぺこ頭を下げている。時々自分に向けられる視線が、ひどく薄気味悪かった。 危ない。 心の中で声が響いた。 逃げろ!と。 尻込みする高耶を『小父さん』が力任せに前に押し出し、男たちに囲まれようするその僅かな隙間をかいくぐって脱兎のごとくに走り出した。本能の命じるままに。 走れ! と声は命じ続ける。 耳の奥で、轟々と風の音が唸りをあげる。もしかしたら、それは、破裂しそうにどきどき打ってる自分の心臓の音かもしれない。 息が切れて足がもつれて目の前が暗くなって。 後ろから追いかけてくる山姥みたいな声がどんどん近づいてきて。 もう駄目だと思ったとき、どんと『何か』にぶつかった。考えるゆとりもなく、夢中でその後ろに隠れた。 それから先はまるで魔法のようだった。 涼やかな声が男たちを追い払う。 と、今度は同じ声が自分に話し掛けてきた。 『小父さん』から逃げだしてしまったのだ。もう『ねえや』のところには帰れない。 何も答えられなくて、ただ差し出された背中にしがみついた。 広い背中は温かかった。 ふわりと人の匂いがした。 揺られているうちに、張りつめた気が緩んで涙が出てきた。止めようと思ってもどうしようもなかった。 背中越し、おぶってくれているこの人のため息が聞こえた。 この人は困っている。きっと自分のことが邪魔なのだ。 せっかく助けてもらったのに、ごめんなさい。泣きやめなくてごめんなさい。 いつかきっと役に立つから。お願いだから嫌わないで――― そうして心の中で繰り返し何度も謝っているうちに、いつのまにか眠ってしまったらしい。 次に目が覚めたのは暖かな布団の中、すぐ傍には綺麗な女の人がいて、優しく微笑んでいてくれた。 |