本当に魔法みたいだった。 目が覚めたのはふかふかのお布団で、そのお布団の敷いてあるのは広いお座敷で、しかも天女さままでいらっしゃる。 目は覚めたけど、これは夢じゃないのだろうか。それとも今までが長くて怖い夢だったんだろうか。 ぼんやりと考えていたら、夢じゃないとばかりに自分のお腹がくぅと鳴った。 慌てて下を向く。立派な布団に不似合いな汚れた着物が目に入って急に恥かしくなった。 身を固くしていると、綺麗なその人が言った。 「……まずはご飯にしましょうか。それからお風呂に入ってさっぱりしましょうね」 優しい微笑につられるように、こくんとひとつ頷いた。 お粥を食べて人心地をつけて、それからお風呂で身体を洗ってもらって。 出された着替えは、女の子のものだった。 「ごめんなさいね。ここにはこういうものしかなくて」 女の人は困ったように小首を傾げる。 なんだか悪い気がして慌てて首を振った。 ふんわりさらりとして暖かな肌襦袢。ぱりっと糊のきいた長着。色柄さえ気にしなければ、今までのものよりずっと上等の着心地だった。 仕上げに帯を結んでくれたその人が、少し離れて検分しにっこり笑う。 「坊やには申し訳ないけど、とってもよくお似合いよ。ね、せっかくだから髪もいじらせてもらってもよくて?」 ずっと付ききりで世話をしてくれていたのだ。嫌だと言えるわけもない。 黙って頷くと、その人は嬉々として鏡台から柘櫛を取り出し縁側に誘って座った自分の後ろに回った。 丁寧に髪を梳かれるのはとても気持ちがよかった。 暖かな陽だまりも、整えられた庭の緑も、時折ふわりと頬をなでる風も、全部。 できることならいつまでもこうしていたいと思ったから、時折、女の人が訊くことにぽつりぽつりと答えていった。自分の名前や『ねえや』のことや、『おじさん』に連れ出されて怖い思いをしたこと。 そして男の人に助けてもらったことまで。 そう言えば、あの人は? 今さらながら口にする。 「あの人はね、義明さんというの。私の、まあ、旦那さまだわね。高耶ちゃんが眠ってしまったから一時私に預けていかれたのよ。 大丈夫。後でちゃんと迎えにきてくださるわ」 そう言って櫛を置く。 「さあ、出来た!どお?これだとどこから見ても可愛い女の子ねえ」 その声音がとても満足そうだったから、なぜだか急に心が疼いたことには気づかれなくてすんだと思う。 差し出された手鏡をそっと覗き込んでみた。髢を足してヤギの尻尾みたいに髪を束ねた不安げな自分の顔が映っていた。 こんなんで、本当に女の子? 「あの…」 おそるおそる振り返ったとき、庭を隔てる植え込みの木戸にぬっと人影が現れた。 顔も体つきもがっしりとした若い男の人だった。 昨夜のことが、突然思い出されてきゅっと身体が縮み上がった。もう声も出なかった。 と、ふわりと空気が流れて目の前が翳った。女の人の手が伸びて羽の中に囲うようにやわらかく抱きしめられたのだ。 「大丈夫よ。あれは、ここで働いている卯吉さんという人なの。腕っぷしがとっても強いんだから。高耶ちゃんのこと、きっと悪い人たちから守ってくれるわ」 なだめるように囁かれて、とんとんと軽く背中を叩かれる。 屈みこんだその人の髪からはとてもいい匂いがした。 また、涙が出そうになった。 ふかふかの布団や綺麗な部屋やおいしいご飯だけじゃなくて。 この人は本当に自分のことを大切に思ってくれているんだと、それが解ったから。 此処にいたい。この人たちと一緒にいたい。お願いだから、そうさせて―――なんだってするから。 言葉にはできなかったから、自分からぎゅっと力いっぱい抱きついた。 もちろん高耶には見えなかったのだけれど。 高耶にしがみつかれたその瞬間、十六夜は吃驚したように大きく目を見開いて、やがてこの上なく幸せな笑みを浮かべたのだった。 「あの、太夫?」 まさに感動のシーンだったのだが、置き去りにされていた卯吉がここで躊躇いがちに声を掛けてきた。 「江田のご隠居さまから使いの者がきまして。明後日に稽古をつけてもらえないかとたってのお願いで……」 「あらそう」 とたんに十六夜の顔は、慈母のそれからきりりと引きしまった常磐津の師匠のものに変る。 「明後日、明後日…と。いいわ、いつもの刻限にお伺いいたしますと、伝えてくださいな。それと、卯吉さん」 胸に抱え込んでいた高耶をそっと引き剥がし、卯吉の方へと向き直らせる。 「しばらくの間、この子を旦那さまからお預かりすることにしました。…なにしろこんな器量よしでしょう?可哀想に、性質の悪い連中に攫われそうになってすっかり怯えてしまったの。 見かけない顔が店の周りをうろついてないか、おまえさんも、よく気をつけておくれでないか。頼みますよ」 促されて、高耶がぺこんと頭を下げる。 「……高耶です。あの、驚いちゃってごめんなさい。……どうぞよろしくお願いいたします」 三つ指をついたまま、まっすぐに見つめてくる高耶の顔をまじまじと見つめ返して、呆けたように卯吉が言った。 「……こんな別嬪さんじゃ、悪い虫も寄ってこようかってもんでさあ。大丈夫。俺が嬢ちゃんをしっかり護らせていただきます。大船に乗った気でいてくだせえ」 大見得を切ってどんと厚い胸板を叩いてみせる、その仕種がひどく芝居じみていて、十六夜も高耶もくすくす笑う。 卯吉本人も照れ臭くなったのだろう、そそくさと一礼すると伝言を伝えるために戻っていった。 「ね?卯吉だって高耶ちゃんのこと間違えたでしょ?女の子だなんて一言も言ってないのに」 悪戯っぽい笑みを浮かべたまま、十六夜が言った。 「この際旦那さまが迎えにくるまで、表向き私の禿になってくれるっていうのはどうかしら。そうしたら、お座敷やお稽古でも高耶ちゃんと離れずにすむわ。 ………もちろん、高耶ちゃんが嫌じゃなかったら、だけど」 もちろん、願ってもない話だった。 こうして、禿としての所作振る舞いの手ほどきを受けながら、高耶は直江との再会を待つこととなったのである。 |