ぐったりと動かない身体を清めながら泣き濡れた顔も拭ってやる。
あてられるタオルにも反応しないほど、高耶は、深い失墜の中にいる。 ようやく彼を手に入れた。欲情して必死に自分を求めてくる彼とひとつになった。 それは、思い返すだけで震えが走るほど壮絶な快感だったけれど。 同時に、取り返しのつかないところまで、彼を追い詰めてしまった。そんな悔恨もあった。 ただ無防備な信頼が欲しかっただけなのに。もう手に入らない。 それが、悋気に苛まれるまま、最悪の方法で彼を貶め我が物とした報い。 この先、たとえ交わることがあったとしても、彼の心はもう二度と自分に向かうことはないのだ。 高耶を抱きしめながら、直江はまんじりともせず、その夜を過ごした。 腕の中の彼が何度か苦しげにうめく。 水を与えると、眉間の皺が消えふわりと微笑んで、また寝入る。 それが誰の手なのかも知らずに。 せめて彼の夢の中が平穏だといい。そこに自分はいなくとも。逃げ込める場所があるなら、束の間、安らいでいてほしい。 穏やかな眠りに誘えるよう、彼の背をさすってやりながら、そう念じた。 明け方から、高耶は熱を出した。 今までの緊張と心労とが、最後の矜持が崩れた今、一気に噴出したのだ。 ろくに物も食べず、眠り続ける高耶を人任せにはせず、できる限りの時間を傍らで過ごした。 数日後、ようやく意識のはっきりした時にも直江は付き添っていて、しばらくぼんやりと自分を見上げていた高耶の顔に、急に怯えの色が走るのを、痛ましい思いでみつめていた。 やはり、こんなにも彼のことを傷つけていた。 忸怩たる思いを抱えながら、額に落ちかかった髪の毛をかきあげてやる。 「心配しないで。病人をいたぶるほど落ちちゃいません。早く元気になってください」 いつにない心情のこもった声に、ほっと高耶が息をつく。 直江の指先は、なおも高耶の髪に触れていて、そのあやすような仕草に、またとろとろと眠りに誘われた時、 はっとしたように、突然、高耶が眼を見開いた。 「直江…?」 「はい?」 「なんでもない……少し、寝るから。もう、大丈夫」 そのままくるんと寝返りを打って枕に顔を埋めてしまう。 独りになりたいという彼の意思に逆らわず、直江は静かにおやすみを言って、寝室を後にした。 トクットクットクッ……。心臓の音が煩い。 枕の端を握りしめたまま、高耶は再び眼を開ける。 夢うつつにずっと優しい気配を感じていた。 柔らかく名を呼ばれるのを聞いていた。 自分は声も出せず目も開かなかったけど大切に包みこまれている空気は伝わってきて、何も不安も心配もなく、また眠りに身を委ねることが出来た。 あれは、直江だったのか? 信じられない。と高耶は思う。 自分に無体を強いた張本人の彼が。意識のない間にこれほどの労りをみせてくれたなんて。 それとも。 一気に雪崩落ちそうな感情を懸命に支えて高耶は考える。 ただの気まぐれなのかもしれない。 こどもだって、普段はぞんざいに扱う玩具を、たまには撫でたり磨いたりするではないか。 今度のことも。きっと、その程度のことだ。 この優しさに溺れてはいけない。彼にとって、自分はただの閨の愛玩具にすぎないのだから。 もっと慈しまれていたいなどと。そんなことを願ってはいけない。 そう、自分で自分に言い聞かせながら。 触れられた直江の指の感触がいつまでも額に残っていた。 体調が回復し床を離れた後も、高耶が奉仕を強要されることはもうなかった。 そして、日々の勉強が再開された。 教師こそつかなかったが、その代わりのように直江自らが足繁く姿を見せ、 気晴らしにと散策や馬術を勧め、図書室を案内しては様々な良書を選び、課題を与える。 まるで、本当に自分を庇護する後見人のように。 「ゆくゆくは、私の片腕になってください」 高耶の抱く不審を先回りするように、男が言う。いつものように相伴させているお茶の席で。 このまま、ずっとあなたが側にいてくれたら、とても嬉しい。と。 その真意が解らずに、高耶は戸惑う。 それを決めるのは自分じゃない。直江のはずだ。オレはただ決定に従うだけなのに。何故そんな、希うような眼で見るのだろう? 居たたまれなくて視線を外す。 俯いて黙り込む高耶に、直江は小さく息をつき、お茶のお代わりを勧める。何事もなかったかのように。 これは新手の戯れかなにかか? それとももう玩具としては飽きてしまったという、婉曲な言い訳だろうか。 或いは、少しばかり体裁を整え直して、また別のところにやられるのかもしれない。 穏やかな時間の流れに身を任せながら、不安だけが募っていく。 あれほど、用済みになるのを待ち焦がれていたのに。今は、それが辛いなんて。 嬲られつづけていた間に、きっと、何処かが壊れてしまったのだ。そうでなければ理由がつかない。 男の肌が恋しい、もう一度抱かれたい、なんて思うのは。 自分は金で買われた身だから。直江が望まない限りは、それは、口が裂けても言えない願いだった。 心を押し殺す日々は、彼の瞳から、しだいに光を奪っていく。 が、高耶の覇気を一気に甦らせたもの。 それは美弥から届いた手紙だった。 この屋敷に乗り込んできてから、もう一年が過ぎようとしていた。
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