L'ESTRO ARMONICI




自分が奉公することで話はついた。だから何も心配は要らないと。
此処へきた当初、そう手紙を送って以来、妹との連絡は絶っている。
これ以上、この屋敷には係わらせたくはなかったし、すぐに彼女を思い遣る余裕もなくなった。 無我夢中で矢継ぎ早の特訓にくらいついて結果をださねばならず、 直江に嬲られるようになってのちは―――正直な話、とても手紙など書ける状態ではなかったのだ。

久しぶりに触れる美弥の筆跡。
嬉しさと後ろめたさで封を切る手が震えた。

流れ去った時を感じさせない、細やかな日常が綴られていた。
高耶の言いつけ通りしばらくの間知人の家に匿われていた彼女は、 今はとある屋敷で子守り兼奥方の話し相手として住み込みで働いているという。
利発な子ども。優しい奥方。穏やかに孫息子の成長を見守るその両親。古くからこの家に仕える数人の使用人たち。
文面からその家の温かさが感じ取れて、美弥の幸福と幸運に安堵したのも束の間、 さりげなく添えられていた、千秋という名に息が詰まった。

千秋が?
美弥を奪い取ろうとやってきた、あの、薄笑いを浮かべた顔が目に浮かんだ。
美弥はすっかり気を許しているらしい。度々彼女の様子を訪ね、今度の奉公先も彼の斡旋であることが話の前後から窺えた。
でもそれはつまり―――直江の差し金ということではないのか?
美弥の行方が直江に筒抜けになっている。いつでもその身柄を押えられてしまう。
思ってもみなかった事実を知らされて、疑念がどす黒く膨れあがった。

自分が妹の身代わりになるといい、あの男はそれを受けた。
実際、それなりの仕打ちも仕方がないと思いきわめてやり過ごしてきた。
そうできたのは、美弥だけは無事でしあわせに暮らしているはずだと。そんな信念めいた思いがあればこそだった。
それなのに。
自分は手のうちで踊らされていただけ。 直江は、美弥のことも諦めるつもりはなかったのだ。


不意に。
長いこと忘れていた千秋の憐れむような表情が甦った。
代わりに屋敷に行くと言い張ったあの時に。
最後に、ため息をつきながら、彼は一服の紙包みを高耶に渡してこう言ったのだ。

『商売柄、俺がお連れするお嬢さん方には一応渡しておくものなんでな。おまえにも預けておくよ。 いいか。これは一思いにラクになれる薬だ。お守り代わりにとっときな』
『おまもり?』
『最後の手段があると解っていると、人間、かえって踏ん張れるもんだからな』

そんなものは必要ないと放ったまま、いまもそれは荷物の何処かに紛れているはずだが。

ひょっとしたら、 直江は、待っていたのかもしれない。
鼠をいたぶる猫のように。酷薄に細めた眼差しの向こうで。
玩ばれ、与えられる苦悶に耐えかねた自分が、自ら命を絶つのを。
最初から。
そうして予定通りに美弥まで手に入れる日を。

疑念はすぐに確信に変わった。
手足が冷たい氷のよう。蒼白い怒りがじわじわと全身に満ちる。
淡い思慕も受けた仕打ちも屈辱にまみれた身体も何もかも。 交じり合うことなく、すべてが固く凍りつく。
そして自分の手には、それらを粉々に砕く手段がある。
使う機会もなかった紙入にそれは仕舞われていた。一匙ほどの白い粉。これが、すべてを粉砕してしまえる鉄槌。
魅入られたように毒薬を見つめる高耶に昏い笑みが浮んだ。



夜更けまで書斎にこもる直江に夜食を運ぶのは簡単なことだった。
ワゴンの準備をしている執事に、その役目を代わってもらえばいい。
少し、話したいこともあるからと、渡されていた本をかざして見せる。 それだけで、謹厳な彼は微かに顔をほころばせて、高耶の分の茶器まで用意してくれた。
途中、器に細工をした。
書斎のドアをノックする。
簡潔な返事を待って静々と中に入る。
書類に没頭している直江の背中が見えた。
「珈琲をお持ちしました」
執事の口調を真似て言ってみる。
その声音に、直江は吃驚したように振り返って、そして破顔した。
「やあ、あなたでしたか。どうしたの?こんな遅くまで」
何処までも気遣う庇護者の口調。でももう騙されない。
「少し訊きたいことがあって。……珈琲、オレも此処で飲んでいい?」
直江の前では言葉を飾らない。それは、もう、身体を重ねた時からの了解だった。それは今も変わらない。
「もちろん」
典雅な動きで直江は机を離れ、高耶の佇む小卓へと移動する。
ウォーマーからポットを取り上げ、高耶が手ずから注ぐのを優しい眼差しで見つめていた。
そんなふうに見られていても、不思議なほど平然としていられた。人一人殺そうというのに。指先ひとつ震えない。
「どうぞ」
「ありがとう」
ソーサーごとカップは直江の手に渡り、一口、含んだ。
そこまで見届けて、高耶もおもむろに自分の珈琲に口をつける。
直江が首を傾げた。
「今日のは、少し苦いですね」
「そう?……やっぱり解るんだ。焙煎を少し変えたって、執事さん、言ってた」
「あなたは平気?」
「うん」
「ならいいんです。いただきます」
他愛のない平和な会話。
そして直江はカップの中味をすべて飲み干す。


詳しい効能は高耶もしらない。だから、ただ目の前の男を見守り続けた。
直江の眉が微かに寄った。
「失礼。すこし息苦しいようだ」
そう言って、襟もとを寛げる。
「窓、開けようか。きっと仕事のし過ぎで空気が澱んでいるんだよ」
高耶は立ち上がり、窓を開け放って夜風を入れる。そう言う自分も少し足元がよろけるのがおかしかった。
椅子には戻らず、直江の傍らに立った。
「ありがとう、高耶さん」
なにも知らない男は、自分を見上げて礼を言う。こんな些細なことにまで。
「直江…」
「はい」
「ごめんな」
なぜだろう。自分でも解らぬままに謝罪の言葉が口をつき、肩に手を置き屈みこんで唇に触れた。
初めて与えた口づけだった。男は呆然と眼を瞠り、やがて積極的にそれに応える。
手を引かれるまま膝に乗りあげ、首に腕を絡ませて抱擁しながらのキス。
艶めかしく濡れた唇がようやく離れた時、高耶はすっかり息があがって、くたりと男の胸にもたれかかる。
荒い呼吸をなだめるように頭を撫でながら、直江は、静かに口を開いた。

「さっきの珈琲になにかまぜましたか?」
伏せていた顔をあげて、高耶は直江の視線にすべてを曝す。
「気づいてたのか?なら、何故黙って飲んだ?」
静謐を湛えた高耶の表情。その顔に直江も微笑む。
「あなたの手に掛かるのなら、それで本望だから。自分が殺した男のことをあなたは絶対に忘れたりしないでしょう? あなたの心に棲んでいられる。それで充分です」
「直江…?」
初めて高耶に動揺が走った。この男はいったい何をいいだすのだろうと。
「憎まれて当然のことをした。あなたには辛い思いばかりさせてしまった。本当はもっと早く自由にしてあげるべきだったのに。 手放すことにも耐えられなかった。最後まであなたに重荷を背負わせてしまいますね。許してください。でも、愛していたんです。ずっと。」
「嘘だ……」
「今さらあなたに嘘をついて何の得があるんです?」
「だって!オレは!」
ただの玩具じゃなかったのか?
揺れて流れる眼差しを、そっと両手ではさみこむ。視線を逃さないように。
「あなたにそう思わせてしまった……それは私の責任だ。でも、どうか信じて。私は……ただあなたに愛してほしかった。 あなたが妹さんや若い使用人に向ける慈愛を、私にも注いでほしかったんです」

突き詰めてみれば、望みはとても簡単なこと。でも最初に介在した取引がすべての言動を狂わせた。 直江も。高耶も。互いの想いが相手に伝わることはとうとうなかったのだ。

「オレは……金で買われた身だから。おまえには、要らなくなったのだと思ってた。ならばいっそ、 捨てられる前に引導を渡そうと……もろともに」
思っても見なかった言葉が口をつく。
冷たい怒りの奥に隠されていた、これが自分の本当の心。 そう、自分は、殺してまでこの男を手に入れたかったのだ。

高耶の言葉に、一方の直江も色を失う。
「まさか、あなたも?あなたも同じ毒を呷ったというの?」
こくりと高耶が頷いた。泣き笑いのような表情をその顔に浮かべて。
「ひとりでなんか逝かせないから。オレも一緒だから。……だから、許して……」
もうたまらずに、直江は高耶を抱きしめた。
「あなたを遺して逝かなくていい。何よりの餞です」
「もう、どれくらいの時間が残されているかは解らないけど。でも……」
「ええ……」
もう言葉は要らない。縺れあうようにしてふたり床に沈みこんだ。



心が重なり合うだけで、交わす愛撫はその意味あいを変える。それが末期の情交なら、なおさら。
口づけひとつ、指先ひとつで高耶は昂ぶり、子どものように泣きじゃくる。
ごめん、と。
愛してる、と。
謝罪と求愛とを交互に口にしながら。
それ以上は泣かせたくなくて彼の唇を塞ぎ、舌先をからめとる。
塞き止められた嗚咽は、彼の内部を駆け巡り封じられた口の代わりにその全身でコトバを紡ぎだす。
好きだ。愛してる。もう、離さないで。と。

そうしてひとつに繋がり何度目かの絶頂を迎えて、高耶は、淡い微笑みを残したまま、もう眸を開くことはなかった。




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