最初に目を引いたのはその鮮やかな色。 濁りのない透明な赤が酒杯の中で煌めいている。 血肉を喰らった並みの花ではこうはいかないから、つまりは原料から吟味を重ねているのだろう。 口に含めば風のような涼味。 わずかばかりの怯えと恐怖がアクセントになった、瑞々しい初な官能。 固い莟が花開いていくような、そんな艶やかなふくらみを持ちながら最後に残るのは清冽な香気。 なるほど、目利きで知られるこの叔父が秘蔵するだけのことはあると、思いながら杯を置いた。 その叔父はこちらの反応を窺うように悪戯っぽく笑うと、今度は別な酒杯を滑らせてくる。 「これは?」 「なに、言ったらつまらんよ」 当ててみせろといわんばかりの謎掛け。 同じように見える真紅の酒を、眇めるようにして眺めてみた。 その透明度は変わらず、心なし色の深みが増したような? 口に運んで、その芳醇な味わいに目を瞠った。 まさに爛熟しきった薔薇の芳香。 間違いなくベースは同じ清涼の気、それでいて別物かと思うほどの濃密な妖艶さが際立っている。 「……これは?」 どんな花を醸せばこんな酒ができるのか? 批評も忘れ呆然と呟くのに、今度は応えがあった。 「始めの一杯が初摘みの最後の一本。次のがつい最近の樽だ。 どちらも同じ苗床の花だが……ただし、もうかれこれ百年も同じ『花守』が世話をしとる」 「?」 意外な言葉に目を上げた。叔父は試すようにみつめたままだ。 「そんな噂を聞いとらんかね?てっきりそれで訪ねてくれたと思ったんだが」 まったくの初耳だった。 「花守なんて……とっくに途絶えた風習だと思ってましたよ。第一それだけの器がいない」 掛け値無しの本音だった。 あの貪婪な花々を御すのは容易なことではない。 だからこそ苗床は奥庭の禁域であり、召し上げた『贄』をあてがって宥めつつ育てているのではなかったか? 本当に花守がいるとして、では、身内のいったい誰がその役を担っているというのだろう? もの問たげな眼差しに、苦笑をもって叔父が応える。 「我等の一族ではないのだ。……今、花の世話をしているのは、昔『贄』としてやってきた人の子だよ」 その言葉に度肝を抜かれた。神の身でさえままならぬことを人間が? こちらの驚愕を、さもありなんと叔父は頷く。 「私もまさか人間の身でここまで務めるとは思わなかった。 だが、現に酒は醸され続けている。それならば、変わらず花も咲いているのだろう。…… 結界がきつくてな、関守の目を借りて視ることさえ難しくなった。花はよほどに蜜月を邪魔をされたくないらしい…」 「まるで愛し娘を盗られた父親のようなことをおっしゃる」 まぜ返す言葉に、叔父は穏やかに微笑んだ。 「年寄りの感傷と思ってくれてかまわんさ。……ただ……」 「ただ?」 遠くを見る目で叔父は言った。 「線の細い…本当に華奢な子だった。それだけにいささか不憫でな。役目がら『贄』の人間など飽きるほど見たというのに。 あの姿だけは忘れらん……」 元々変わり者としても知られる叔父は、 不老の身をつまらんと言い切り、命短い草花を愛でるような男神だ。 だから、その性癖ゆえの思い入れだろうと、気にもとめなかった。まだ、この時は。 夢ともうつつともつかぬ結界の中、子どもは花に護られて棲み暮らしている。 あの日、昏睡から目覚めても、まだ子どもは我が身を信じかねていた。 そして次第に理解する。 『贄』の自分に求められているのは、どうやら生命ではないことに。 さわさわとした葉擦れの音が切れ切れに花の思いを伝えてくる。 このままずっとこうしていてほしいと。 それは、未来永劫続く隷属。死よりも緩慢で残酷な仕打ち。 けれどそれが負うべき役目ならばと。 子どもは諾々と花の望みを受け入れた。 今までと変わらず、花の世話をする日々が続く。 咲いた花は美しかったし、優しかった。 心穏やかに花に繋がれ共に過ごすうちに、子どももまた少しずつ花めいてくる。身も心も。 定期的に訪れる開花の時期の渇望さえ、自身の欲望として感じるほどに。 逐情することを欲されて、嬉々として従う。 自らの手で為すこともあれば、蛇が敵娼を務めることもある。 人間の禁忌に曝されないまま愛撫に慣らされた身体は躊躇うことなく快楽に酔い、奔放にその精を放つ。 歓喜に震える花の悦びが幾重にも木霊してさらなる恍惚へと駆り立て、狂宴は果てしなく続く。 幾度も気をやった末にようやく訪れる失墜は、いつも死への微かな予感と期待をもたらすけれど、 それが叶うことはなかった。 気だるい目覚めは必ずやってくるから。 それでも、疲弊しきった身体の世話を焼く花の慈愛が心地よくて、結局はほだされる。 そうしてまた花との日々が始まるのだった。 時折、これはやっぱり夢なのではないかとぼんやりと思う。 どこかにある自分の身体はとうに滅んでいて魂だけが繰り返し入れ子のように夢を見ているのだと。 花の心声に抱き包まれて胎児のようにまるくなって、花と紡ぐ幸福な夢。 いつか、子どもは考えることを止めていた。 その夢に、ある日突然人影が入り込む。 最初、子どもは気づかなかった。 霞がかかり考えることを止めた思考は、目に映るものさえそうとは知らせなかったのだ。 花の不穏なざわめきが伝わってようやく子どもは目の前の影に視線を飛ばす。 それは、人間の姿をしていた。 神々しいほどに若く美しい男性の。 男は注意が向いたのに気づくと、子どもににっこりと笑って呼びかけた。 豊かな声、滑らかな響きで。 「こんにちは。美しい花園ですね」
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