奥庭に足が向いたのは、興味、というよりはむしろ敵愾心からかもしれない。 結界を強くしてまで他者を阻もうとする花の意思。『贄』あがりだという『花守』。 たかが花、たかが人間ではないか? そんな侮りが消えなかった。 確かに生身では難しい侵入も、相応の力を持つ我が身なら話は別。 驚く関守には眼もくれず、 山繭の生糸のようにしなやかなその障壁を半ば強引に突き抜けた。 目の前に広がるのは一面の野。 咲き乱れる花々。 あたりを満たす甘く芳しい気。 そして、その総てにかしずかれるようにして、ぽつねんと子どもが一人。 その稚さに息を飲んだ。 目に映るのは楽園そのものの美しい光景、けれど、心眼を通せば別な映像が視えてくる。 子どもの身体に愛しげに絡みつく幾筋もの花の触手、思念の糸が。 子どもに気を分け与えて共に生きながら、その精を搾取する、あまやかな花の心声。 それが子どもの心にまで根を張りつつあるのを。 百年、と叔父は言った。 人間ならば二世代の長の年月を、この子は、変わらずこの姿でいたことになる。 時間に置き去りにされ、成長もできずに。 ただ、花を咲かせ、酒を醸すためだけに。 先日感嘆して味わったあの風味が、その源泉である彼を見た今、ほろ苦く口中に甦った。 叔父の言葉の言外の意味も、今なら察することができる。 彼は、もう、此処にいるべきではないのだ。 男神は、意を決して、一歩、彼に近づく。 闖入者に花が揺らめく。男神の明らかな敵意を感じて。 俯いたまま身じろぎもしなかった子どもは、その花の気配にようやく反応したようだった。 のろりと面をあげてこちらを見る。 底なしの井戸のような瞳。黒々と渕を湛えた感情の窺えない色。 もうすでに人間としての意識はないのかも知れない。 案じながら、それでもおびえさせないよう、努めて穏やかに声をかけた。 「こんにちは。美しい花園ですね」 言葉は空しく響いて虚空に消える。 その黒い瞳に光が宿るまでは、ずいぶんと待たねばならなかった。 ちょうど、井戸に落とした小石がゆらゆら揺れて沈んで底にたどり着くまで、しばしの刻が必要なように。 やがて、深く沈んだ彼の意識にも、ようやく声が届いたのだろう、 形の良い唇が小さく開いた。 なんと言ったのか、とうとう聞き取ることはできなかった。 さらに一歩近づいて噛んで含めるように告げた。 「私は直江といいます」 「…………ナ・オ・エ?」 そう動いた口が本当に言葉を発したのかどうか、定かではない。 音にならないほどの微かな空気の震え。それほどに彼の応えは小さかった。 言葉などもうきっと、長いこと不要だったのだ。 「そう、直江です。もう一度呼んでみて?」 「……なおえ…」 痛々しいほど掠れた声を、今度は確かに耳に拾った。 「そう、もう一度」 「……直江」 発せられた言葉は言霊となり、呪縛を打ち破る楔となる。 その言霊が神の真名であれば、なおさら。 幾重にも張り巡らされていた子どもと花との絆にほんの少しの弛みができた。 彼を引き戻すまでもう少し。 その鍵になるのは、おそらく彼自身の持つ言霊。 「…そう。それが私の名前。では、あなたの名は?私はあなたを何と呼べばいいの?」 近づいてくるその男性を警戒するように、 花は、ざわざわと騒ぎたてる。 だけど、その声を、もっと聴いていたかった。 あやすような抑揚に誘われて二度三度とその響きを繰り返す。 久しぶりに聞く自分の声はひどいがらがらだったけれど、 それでもなおえという音の連なりは、目の前の本人同様美しかった。 呪文のように呟くうちに、不意に子どもは名を問われていることに気づく。 名前。自分の名前。 それは、いったいなんといっただろう? 長い間浮びもしなかったそれを、子どもは懸命に自分の中から探そうとする。 そしてようやく思い出す。 見つからないのも道理。自分はすでにそれを捨て去っていたのだった。 『贄』として此処にやってきたときに。 ではそれ以前は? おぼろになった記憶をさらにたどった。 里で暮らす、普通の子どもだった頃。父がいて母がいて妹がいて。 苦しいこともひもじいこともあった。でも、寄り添う大切な人たちがいて。 幻聴が、懐かしい声が耳の奥に木霊する。 高耶と。 そう、あの頃の自分は高耶と呼ばれていた。 「………か…や」 絞りだした声は、正確な音を伝えていたかどうか。 でも向き合うその男神はきちんと唇の形を読み取って優しく返してくれた。 「たかや…?そう、高耶というの。では、高耶さん、改めて、こんにちは」 呼ばれるたびに懐かしい想いが奔流となって溢れ出た。夢のような花との日々が遠ざかって 昔の記憶がどんどん鮮明になっていく。 気がつけばぽろぽろと涙が零れ出た。 「高耶さん…」 指先で涙を拭われた。 堪えきれずに顔が歪んだ。 直江は、変わらずに名を呼びながら、静かに引き寄せてくれた。 暖かな気が、人肌の体温がたまらなかった。 もうわけがわからずにその胸にすがり付いて、ただ声を上げて泣き続けた。
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