それは、百年分の慟哭、だった。 堰を切った雪解け水の氾濫のよう、号泣とともに迸る、万感の想い、記憶の断片。 その一つ一つを受け止めながら、直江は、腕に抱く高耶という存在を改めて噛みしめる。 望んで此処に来たわけではない。『贄』になることへの不安も恐怖も彼の裡にあった。 ただ、それを凌駕する他者への労り。家族を想うその心が、すべてを凪のような諦念に変え、百年もの間、奇跡のように己を律し続けていたのだ。 静謐を湛えた、捨身の心。 神でさえ稀有なこの徳目は、不思議なことにごく稀に人の子に宿る。 人間の感情に聡い花が、それに感応しないわけがなかった。手放すはずがなかった。 彼は、為るべくして花守となったのだ。 振り絞るような嗚咽の声が次第に小さく間遠になる。 一人閉じ込め凍りつかせていた思いを吐き出すだけ吐き出して、ようやく気持ちが緩んだのだろう、 泣き寝入りのようにして眠ってしまった身体を抱えなおした。 高耶が曝け出した初めての『感情』に戸惑うように揺れていた花が、そろそろと葉茎を伸ばす。 気遣うように触れる仕種に、花もどれだけ彼を大切に想っているかが知れる。 微苦笑が洩れた。 袖口から覗く高耶の腕には最初の日に刻まれた呪字が、生々しく見え隠れしている。 『贄』として結んだ血の契約。『花守』として交わした絆。共に過ごした長すぎるほどの時間。 二重三重に苗床に繋がれた彼を、新参の自分が如何にして攫っていくか。 連綿と続いた因習に逆らう無謀な試みかもしれない。それでも、諦めるつもりはなかった。彼を泣かせることになったとしても。 自分もまた、彼に囚われてしまったのだから。 暗い水底から意識が浮上する寸前、ほどなく訪れるはずの目覚めにたいしては、いつもわずかばかりの躊躇いがあった。 けれど、今日はいつもと違っていた。 眠りながら感じ続けていた体温が、高耶を遠い昔に引き戻していたのだ。 ひとつ布団で妹とくるまっていた頃に。 微笑みながらおはようを言おうとして、不意に目に入ったのは、逞しい胸元。 とたんに抜け落ちていた記憶が甦る。 同時にまともな思考も戻ってきて、高耶はほんのりと赤くなる。 見ず知らずの相手に醜態を演じ、あげくにもたれて眠ってしまっていたなんて。 身の竦む思いでこっそりと下から窺い見る直江は、どこか遠くを見つめ、厳しい表情を浮かべていた。 その端整な貌に、ただ、見惚れた。 一心に考え込んでいるらしい様子に、縮こまったままどうしようかと思案してると、相手は高耶が起き出したのに気づいたらしい。 別人のように柔らかな笑顔で問いかける。 「……よく眠れましたか?」 こくり。と頷いて、それから思い切って口を開いた。 「…あの……」 「はい?」 「ありがとう…ございました。ずっと一人だったから、人がいるのが嬉しくて。……泣き出したりして、ごめんなさい」 率直に詫びる高耶に、直江の笑みはますます深くなる。 「そんなこと……」 気にしなくていいと云いながら、愛しそうにその頬を掌で包み込み、滑らせて髪を撫でた。 触れてもらうのはとても気持ちがよくて高耶はされるままになっている。 こうして人に触れられることも、長いことなかった。 たぶん、またしばらくはないだろう。自分は此処にいなければいけないし、直江は……ほかに帰る場所があるはずだから。 せめて今だけでも、 この温もりを心ゆくまで感じていたいと、猫のように目を閉じる。 うっとりと、喉を鳴らさんばかりにして。 「…私と一緒に来てくださいませんか?」 突然、言葉が降ってきた。 吃驚して瞼をあげれば、このうえなく真剣な鳶色の眼差し。 何故、こんなことを言うのだろう?綺麗な瞳に魅入りながら、高耶はぼんやりと考える。 そんなの無理に決まっている。 なんとなく直江は承知していると思こんでいた。 花からは離れられない、此処からは出ていけない自分の立場を。 でも、そうじゃないとしたら。いったいどこから説明したらいいんだろう? 撫でる掌は嫌がらず、なのに困ったような顔で見上げてくる高耶に、直江はふっとため息を洩らした。 「どうやら色よい返事はもらえないらしい。 ……残念です。出来ることならあなたを傷つけたくはなかったのに」 「?」 盗み見たときと同じ、ひどく険しい表情で、覚悟を決めた低い声音で、直江は高耶にこう告げた。 「ねえ、高耶さん、あなたが此処に来てからどれぐらい経ってるか、考えたことはある?」 もちろん、ない。 そもそも、昼も夜もない此処で、日数を数えること自体が無意味だったから。 それでも変化のない身体、風景を見ていればたいした時間ではないに違いない。 何故わざわざそんなことを訊くのか、その真意が解らずに、高耶はきょとんと首を傾げる。 その天真な仕種に、心が昏く震えた。 逃げずに掌に囲われている可愛らしい小鳥。その綺麗な羽を毟り取り、取り返しのつかない心傷を今から自分は彼に負わせるのだから。 ことさらにゆっくりと、直江は言った。 「百年ですよ」 高耶はまだ小首を傾げたままだ。その言葉の意味がまだよく飲み込めないように。 やがて、二度三度と、彼は瞬きをした。飲み込みにくいものを今やっと嚥下した。そんな風情で。 言葉はやがて彼の中で明確に形を為しその意味するところを伝えはじめる。 彼が、突然息を飲み大きく目を瞠るその様子を、直江は凝と見つめていた。 「……ひゃくねん?」 高耶は、囁くように繰り返す。 驚愕に震える声で。まるで、嘘だと言ってほしいといわんばかりに。 「そう、百年です」 重々しく肯くことで、彼の願いを残酷に踏み砕いた。 「あなたの時間は止まっていて、醒めない夢を見ているのだと思っていたかもしれないけど。 結界の外では確実に時が流れていたんです。 あなたが里で暮らしていたのはもう百年も前のこと。 『贄』になってまであなたが護りたかった人たちは、もういない。 ……あなたが此処にいる意味はもうないんですよ」 高耶は凍りついたように動かない。 一度は光を取り戻した瞳が、再び虚ろに翳っていく。 ぽたりと。 透明な雫が滴った。 「……本当に?もういないの?……父さんも、母さんも…美弥も?」 「残念ながら」 「オレだけ……?」 また新たな雫が盛り上がり、頬を伝う。 取りすがることもせず、声も上げず、高耶は呆然と涙を流し続けた。 家族のため。それが彼の拠所だったのに。 それの寄る辺をなくして、彼は本当に子どものように小さく見えた。 「私では駄目ですか?あなたの大切な人たちの代わりにはなれませんか? どうか、一緒にきてください」 今一度の懇願。 が、高耶は一歩身を引き、黙ってかぶりを振る。 「できない……約束したから。花と……」 こんなオレでも、欲しいと言ってくれるから……。 鳴りを潜めていた花から歓声があがった。 勝ち誇ったように彼を取り囲み、一気に男神から引き離そうとする。 赤い花に埋もれ、されるままの彼は、すでに意思をなくした人形のようだった。 深みに沈んでいく彼の意識に追いすがるように、必死で叫んだ。彼を引き止める最後の言葉を。 「花はあなたを慰めはしても抱きしめてはくれない。 殺してもくれない。醒めない夢の中を彷徨うだけだ。永遠に。……あなたはそれでいいの?」 貫くような眼差しで、さらに畳み掛ける。 「花はあなたを生かし続けようとする。あなたの意思には係わりなく。 でも私なら。あなたの望みを叶えてあげる。死にたいのなら……抱き殺してあげる。今すぐにでも」 ひくりと。 肩が揺れて、高耶が反応した。 「本当に?本当に殺してくれる?」 無言で返す頷きに、彼が微笑む。 取り縋る花を優しく払うと、まるで抱擁を強請るように直江に両手を差し伸べた。 「……うれしい」 そう言ってゆっくりと目を閉ざした。 これから命を取ろうとする男を信じきったように身を託す。 死という響きが福音になるほど、彼の絶望は深い。そして自分は、そこに付け入ってでも、彼が欲しいのだ。 湧きあがる衝動のまま、荒々しく掻き抱いてその唇に口づけた。
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