小さく小さく縮んで、まるい小さなかけらになって、深い水底へ沈んでいく。 迎えてくれるのは、漆黒の闇と静謐。 何も見えず何も聞えない此処は、すでに冥府の底なのだろうか。 殺してやると、あの男は言った。 だとしたら、やっぱり自分は死者の門をくぐったのだ。あの花園に肉体を置き去りにして。 もう目覚めなくていい。何も感じなくていいのだと、心の裡で、高耶が微笑む。 入れ子細工の夢は終わった。今在る意識が最後のひとつ。 それもじきになくなって、自分という存在が終わる。 無為に過ごした時間から解放されてようやく家族の後を追えるのだと安らぎさえ覚えながら、黒い水の中をたゆたい続けた。 おにいちゃん……。 懐かしい声が聞えた気がした。 同時に、ふわりと頬を掠める感触。 見えないはずの目が、何か白いものを捉える。 ……? 思わず感情が波立った。 確かめようと顔をあげて、そうすることで、高耶はまだ身体―――もしくはその感覚が残っているのに気づく。 それを怪訝に思う間もなく、ヤマネのように蹲った姿勢から仰向けに転じて視線を宙に飛ばした。 暗い水の中、雪が降っていた。 はるか上方、遠すぎて明りすら見えぬ水面から、ひとつ、またひとつと、光を宿した白いかけらがゆらゆらと舞い降りてくる。 あたりは一面の闇だというのに、 そのひとひらは、自ら発光しているように淡く輝きあたりを照らして高耶の元までやってくる。 綺麗だと、思った。 そう思う心が、感情が、まだ死に絶えてはいないのが、―――自分はそれをずっと待ち望んでいたのに――― 今は嬉しかった。 雪によく似たそのかけらが、またひとつ高耶に触れて溶ける。 とたんに浮ぶのは里の情景。 父と母と妹と。 高耶がなにより気に掛けていた大切な家族たち。 ―――言葉にはならない何か暖かなものが、こみあげてきた。 あとからあとから、光るかけらは落ちてくる。 そのたびに視える風景と時間が切り替わる。 少しずつ両親は年老いていき、小さかった妹が花開くように成長していくのを目の当たりするうちに、 ようやく高耶にも合点がいった。 これは都合のいい幻影などではない。誰かが見聞きし、留めた記憶の一部なのだと。 例えば、風の渡る音とともに木の上から見下ろす家の全景。 これはたぶん裏山に住む栗鼠の視線。 かと思えば、美味しそうな匂いとともに物陰から垣間見る囲炉裏端の様子。 これはきっと家ネズミの記憶。 いつのまにか美しい娘になった妹が、他ならぬ自分に向かって一心に祈りを捧げている。 ならば、その宿主は鎮守の社の神木だろうか。 自分のいなくなった後の、家族の様子を誰かが伝えてくれようとしている。 そろそろと高耶は両手を伸ばし、その思いを自ら受け止めようと心を開いた。 次々と吸い込まれ、同調していく光の破片。 美弥の―――妹の祈りが高耶に流れ込んでくる。 今も贄になった兄を慕い、里に残していく両親の身を案じている妹。彼女は、これから領主の館へ奉公にあがるのだ。 過分なほどの奉公先もすべては高耶のおかげだと、泣き笑いで美弥は語りかけていた。 不安だけど、一生懸命頑張るからと。だから心配しないでね、と。 涙が溢れ出た。自分で流すその熱さが不思議だった。 虚ろに口を開けていた胸の大穴が埋まっていく。 自分は決して独りではなかった。離れてはいたけれど、それでも家族はずっと自分のことを思い続け 案じ続けていてくれた。花の苗床で自分がそうしていたように。 ならば、嘆く必要はどこにもない。充分に報われた。 その道は別れてしまっていても、自分たちはいつも一緒だったのだ。 高耶さん……。 柔らかく名を呼ぶ声音が耳に甦った。 もう一度、あの声を聞きたい。切に思った。 思いは力になる。 ふわりと身体が軽くなった。 まどろんでいた地の底を離れ、自分の身体はどんどん上へと向かっている。 名を呼ぶ声に導かれるように。淡雪のような光に取り囲まれて。 浮上するにつれて、光は、次第に音や匂いを帯びてきた。 柔らかな雨の音。鈴を転がすような小鳥の囀り。 肌を撫でる微風の感触。その風が運ぶ芳しい緑の大気。 暖かな陽光。 そこはすでに夢とうつつの境界。身体が、意識が目覚めようとしている。 不意に息苦しいような衝動に駆られて大きく息を吸い込んだ。 水面は、おそらくすぐそこ。だが、板切れのように一面に覆った何かが邪魔をしている。 こじあけようと渾身の力を込めるうちに、ようやくそれは動き出し、ほの暗かった視界にまばゆい光が差し込んだ。 最初に見たのは、食い入るように自分を見つめる端整な男の貌。 驚愕に目を瞠り、何かをいいたげに唇を開いて。 では、やけに重たいあの邪魔物は自分の瞼だったのかと、ぼんやりとそんなことを考える。 自分に触れてくる男の手はぶるぶると震えている。 泣き出しそうに歪む表情に、微笑んでやりたかった。 大丈夫だと告げて、安心させたかった。 そっと壊れ物のように抱き寄せられて、自分も腕を回して抱き返してやりたかった。 けれど困憊しきった身体では、なにひとつ思うようにならず、すぐに次の睡魔が襲ってくる。 ごめん、直江。あと少しだけ、待っていて…… 再び眠りに落ちようとする刹那、ぽたりと涙が頬に滴るのを高耶は感じる。 その熱さに、ああ、生きているのだと、そう思った。
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