最近お気に入りの小料理屋から家までの距離は、新旧の入り混じる複雑な住宅地の小路を歩いて三十分。 わざと角をひとつ手前で曲がったり、二つやり過ごしてみたり。 その日の気分で毎回替える道筋は、そのたびに何かしら新しい発見があって高耶をわくわくさせてくれる。 それは小さな児童公園の若い桜の木とその下の古ぼけたブランコだったり、丹精された山茶花の垣根だったり、玄関脇に飾られた見事な寄せ植えのプランターだったり。 季節は確実に春へと移っていて、通りから覗く家々の庭もまた、百花繚乱の装いを呈している。 眼に美しいのはもちろん、春先はことに香り高い花が多いらしい。ふわりと漂う香りに惹かれてきょろきょろとその在り処を探し出す――そんなこともしばしばだった。 まるで猟犬のようですね、と、そう云って直江は微笑うけれど。 人に人の、猫に猫専用の道があるように、香りを運ぶ微風にもまた風の道があるらしい。 そんなことを高耶は思うようになった。そしてそのベクトルは、どうやら直江よりも自分に向いているらしいとも。 そして今も。 「あ……」 鼻先を掠めたかすかな香りに不意に高耶が声をあげた。 何かに驚いたように立ちすくみ、大きく息を吸う。そして導かれてでもいるように、迷いのない足取りですぐ先の曲がり角に飛び込んだ。 たった数十センチの差で今回も後れをとった直江が後に続く。 いつもと少しばかり違う高耶の様子に首をかしげながら。 曲がった先は行き止まりの袋小路になっていた。 が、突き当りまで見渡せるその道に高耶の姿はなく、さらに路地に入り込んだのかと、片っ端から枝分かれする小路を覗いてみる。 そして、とある古びた家の前で、庭に植えられた白木蓮の樹とそれを見上げる高耶をみつけた。 今夜も月がでている。 その淡い光を受けて薄闇にぽっかりと浮ぶその花々は、まるで白い小鳥の群れが羽を休めて安らいでいるようにもみえた。 「これは……みごとなものだ」 シンボルツリーででもあったのだろうか。野放図に伸びた見上げるばかりの樹勢と、視界を覆い尽くさんばかりの一面の白い花。 近づいた直江も思わず感嘆の声をあげたほど、その樹は堂々たる枝ぶりでその存在を誇示していた。 呆然として見上げていた高耶が、また一歩、道路と庭を隔てる金属製のフェンスに近づく。 そして、フェンス越しに道のほうにまで伸びている一枝に手を伸ばし、静かに顔に引き寄せた。 鼻先を埋めて深く吸い込む。 「いい匂いがする……」 梅の花とも沈丁花ともちがう、甘くて柔らかいほのかな香り。 この香りを確かに自分は知っている。そう思った。そして香りとともに甦るあまくくすぐったいような記憶のきれはし。 とても幸せな思い。いったいいつの、どこでのことだったろう?そして傍らにいたのは誰だったろうか? 答はすぐそこにあるのに、どうしても届かないのがもどかしい。 黙り込んでしまった高耶に焦れて、直江もまた頭越しに手を伸ばし、花の匂いを嗅いでみた。 たしかにいい香りはする。だが、花の持つ一般的な芳香といった程度のもので、それほど個性的というわけでもない。 優しくて淡い印象ばかりの香りのどこが、ここまで高耶を惹きつけるのかが直江には解せなかった。 花の香りはひどくはかない。 何度も吸い込むうちに、嗅覚が麻痺してしまったらしく、やがて高耶は諦めたように手を離した。 反動でしなった枝は、重たげにふるふるとはなびらを震わせてやがてもとの静謐に戻っていく。 まだ夢見るような表情でいる高耶が、期待を込めて直江を見上げる。 「―――おまえか?」 おまえにも心当たりがあるか?遠い昔、違う生のどこかで。記憶は共有されているだろうか?―――そんな思いで問いかける。 が、その端整な顔に浮ぶのは困惑の色だけ。では、直江ではないのだ。 「ちがうのか……」 残念そうな呟きに、ますます疑念を深める直江の無言の威圧を感じたのか、高耶がようやく理由を告げた。 「前にこの匂い嗅いだことがある。なんかすごく懐かしい……具体的なことは何ひとつ思い出せないのに、この香りに包まれて誰かが傍にいてくれて ……それがとても楽しかったことだけ、覚えている。おまえとの記憶かと思ったんだけどちがうんだな。いったいどこのだれとの思い出なんだろう……?」 記憶の淵に沈むように、語尾は次第に溶けていく。その陶然とした表情に耐え切れずに、強引に現実に引き戻した。 「高耶さん……そろそろ」 言外に夜の更けたことを匂わせる。わざとらしく時計をみるふりまでして。 「ああ?そうだな。ゴメン、寄り道させちゃって」 ―――いこう。直江と。 屈託なく笑う高耶はもういつもの彼。だが、自分は、もう同じ心持ちには戻れない予感があった。 心の奥に暖かなものが灯ったように、この日の高耶は帰宅してからもどこか楽しげで、しあわせそうで、それは直江にとっても喜ばしいことのはずなのに、胸が灼けた。 再び出会うまでの彼の過去。 痛ましいだけではなかったのだと、安らぐ日々もあったのだと安堵していいはずなのに。こんな高耶を見せ付けられてはたまらない。 物分かりのいいふりなど出来ない。 再会するわずかな空白の間に、自分以外にも高耶にあんな顔をさせる人物が紛れ込んでいたのかと思うと、湧き上がるどす黒い情念をとめられない。―――いっそ記憶ごと消し去ってしまいたい。 ふとよぎった思いに、瞠目した。 単なる言葉の綾ではなく本当にそうしてしまえばいいのだと、それは、瞬く間に膨れ上がり成長して固い意志へと変化する。そのための策を練りながら、昏い笑みが浮ぶ。 高耶が何か声を掛けてきた。他愛もない話を、とても楽しそうに。傍らにいる男の悪意の存在など、欠片も疑わない仔鹿のような瞳で。 当り障りのない返事と一緒に微笑みを返して何気なさを装う。 あなたがいけないんですよ。 そんなに無防備に曝すから。 私の本性はご存知のはずでしょう。身勝手で薄汚れた独占欲の塊だということを。 あなたを微笑ませた誰かのことを、私が黙って受け入れるとでも思ったんですか。 あなたには大切な想いでも、私には、邪魔ものだ。 あなたの記憶を塗り替えてあげる。待っていて。私だけでいっぱいにしてあげるから。 きっと今の自分は清純な娘を誑かす悪魔の笑みを浮かべている――そう自覚しながら、 それを押し留めるべき良心はとっくに消え失せていた。 |