あくる日は、木曜日。 高耶はファストフード店の二階席で、ぼんやりと外を見ていた。 バイトは幾つか入れているけれどシフトの関係で半端に身体が空いてしまうことがある。 アパートに帰るのも面倒で、木曜の午後は次の出先に程近い此処で時間を潰すのが習慣になってしまった。 狭いテーブルには珈琲の載ったトレイの他に、はみ出すように置かれた想定問題集。 くたびれたその表紙を見る度に、心の内、高耶はなんともいえないため息を吐く。 寸暇を惜しんで勉強するつもりだったのだ。はじめは。 親戚の厄介になりながら高校だけは卒業し就職を決めて上京してきた時は、そのつもりだった。 時間がかかってもいい、あるいは夜間部でもかまわない。 働きながら資金を貯めて、いつかは大学で専門知識を学ぶのが高耶の夢だった。 自分が頑張りさえすれば叶うと思っていた。また、そういう気概ある人材を歓迎する気風のある職場だと、担当者から聞かされてもいた。 けれど。 希望に満ちた新生活はたちまち暗転した。肝心の勤め先が倒産してしまったのだ。 学資を貯めるどころかどうにかバイトで食いつなぐ、かつかつの生活が始まった。 それでも夢だけは諦めたくなくて、参考書の類は常に持ち歩いている。 もっとも今では設問に集中する気力もなくなって、 ほとんど惰性で開くだけだったが。 「此処、よろしいですか?」 ぼーっとしていたところに、突然声を掛けられた。 目に入ったのは、まず手触りのよさそうな上質のスーツの上着部分。 相席を求められるほど込み合っていたのだろうか?と、慌ててあたりを窺えば、まだ席には余裕がある。 じゃあ、なんでわざわざ? 声をかけてきた相手を振り仰いで、仰天した。 テーブルとテーブルの間、たいして広くはない動線を塞ぐようにして傍らに立っていたのは、昨夜の男だった。 しばらく莫迦みたいにぽかんと口をあけて男の顔を見上げていたんじゃないかと思う。それぐらい驚いた。 微笑を湛えていたその表情がやがて困惑に変わるのにはっとして、 だらけていた姿勢を正しテーブルを占拠していた自分のトレイを引き寄せる。 その仕種を了承ととったらしく、男は半分ほど空いたスペースにトレイを置いて するりと高耶の向かい側に腰を下ろした。 椅子はあっても、もともと一人用みたいなテーブルだ。 ただでさえガタイのいい男には窮屈きわまりないだろうに、きちんと畏まって高耶に向って一礼した。 会釈だけは返したものの、なんとも気まずかった。 どういう顔をしていいのか、どんな態度をとればいいのか、見当もつかないし、 そもそもこの男が相席をする理由だって不明のままだ。 珈琲はすでに飲み終えている。時間には少し早いが退散したほうがいいのだろうかと俯き加減に考えていた時、 「よろしかったら」 そんな声と一緒に目の前にスイーツのカップがとん、と置かれた。 えっ?!と思わず顔をあげると、男が小首傾げるように高耶を見ていた。 「季節限定の新商品だそうですね。無料のお試し券をもらったのはいいんですが、 自分ではなかなか食べる気になれなくて、でも無駄にするのももったいなくて。 お嫌いじゃないなら、引き受けてくださると大変助かるんですが……」 婉曲なその勧めを断る理由も見つからなくて、ただ黙って頷いた。 所在ないまま黙々と食べていると、また男が口を開いた。 「昨夜は、御馳走様でした。昨夜の連中は皆喜んでいましたよ。すごくいい店だったって」 「いえ……」 そんなふうに言われたって返事のしようがない。 なにしろ相手は金を払って飲みにきた客で、こちらは使われる側のただのバイトで。 特別にサービスしたわけでも便宜を図る立場でもないんだから。 経営者じゃあるまいし、持ち上げられても困るだけだ。 やっぱりさっさと切り上げるべきかと食べるピッチを上げたとき、また男が言ってきた。 「昨夜はほんとに吃驚しました。こんな偶然があるのかと思って」 「?」 思いつめたような口ぶりに、つい手を止めて顔をあげてしまった。 「あなたは覚えてないでしょうけど。一度、駅前であなたからティッシュをいただいたことがあるんです」 秘密を打ち明けるようなその口調に、かっと頬が火照った。 自分はともかく、まさかこの男まで覚えているとは思わなかったから。 ところが、男はさらに意外なことを付け足した。 「実は、その朝が初対面ってわけでもないんです。 ……毎週木曜のこの時間、あなたはたいていこの窓際の席にいらっしゃるでしょう?」 事実だったから、黙ったまま頷いた。それを何故男が知っているのかが不思議だったけれど。 高耶の不審に気づいたか、言いにくそうに男は続けた。 「私もたまたま木曜日、仕事で此処を通ることが多いんです。……いつからか気になってました。 だから駅前であなたに会った時は夢かと思った……あの後、数日間はね、胸躍らせながらあそこを通ったんです。 ひょっとしたらまたあなたが立っているんじゃないかと思って」 「あれは……飛び込みのバイトだったから」 だから一回きりだったのだと、ぼそぼそ高耶が呟いた。 たった一回、どうしても人数が足りないからと頼み込まれて仕方なく引き受けた。 人ごみは得意じゃないし、人との間合いの取り方も上手くはないと自覚がある。 実際、差し出すチラシを無視されることが続くと、 自分をまるごと否定されているようでどんどん気持ちがへこんでいった。 そんな時だったのだ。 自分とは違う世界に住んでるようなこの男が高耶の手から受け取ってくれて、そのうえ、会釈まで返してくれたのは。 本当に嬉しかった。 むしろ礼を言いたいのはこちらの方なのに。 なのに男の言い草は、この男の方が自分に会いたがってたみたいに聞こえて。 そんな都合のいい展開があるわけない。 うっかり早合点しないようにと懸命に逸る心を戒めているのに。 この男ときたら、ひどく優しい眼差しで高耶のことを見つめてくる。 「……そうだったんですか。道理で会えなかったわけだ。 ……木曜日になればあなたが此処にいるだろうとは解っていたんです。 でも、一度きりのすれ違いでは声を掛ける根拠が薄弱で、さすがに躊躇ってました。 そしたら、昨夜、たまたま連れて行かれたあの店にあなたがいた。千戴一隅のチャンスをもらった気分でした。 昨日の今日なら、まだ私のことを覚えていてくれるかもしれないと思って。 ……遠めに見て、きれいな人だと思っていました。 こうして直にお話できて、ますます気持ちのいい人だと解りました。 あなたの時間の空くときでかまわない。よろしかったら、またこうしてお話できませんか?」 まるでドラマのワンシーンのようだ、と思った。 あいにくと自分は男で、目の前のこの男もそうで。吐くべき台詞の相手を間違っているとしか思えないのが難点だけど。 頭の隅に妙に冷静な突っ込みを入れるもう一人の自分がいて、 高耶は再び視線をカップに戻し、ゆっくりと溶けかけたアイスを口に運んだ。 男もそんな高耶を黙って見ていた。 最後の雫まで啜ってしまって、カップを置きながら立ち上がる。 「ご馳走さまでした。オレ、もう、次のバイトに行かなきゃないけど。たぶん、来週も此処にいるから……」 「解りました。来週ですね。そうだ。まだ名乗りもしませんで失礼しました。私は―――」 直江といいます、と。 まだ腰を掛けたまま嬉しそうに男が笑った。 知ってる。 やわらかな色合いの瞳を見下ろし、軽く頭を下げながら高耶は心の中で呟いた。 あれから、あの小上がりでは何度もその名前が会話に出てきたから。 有能でハンサムで気前がよくて。 そんな人好きのする専務さんが、どういうつもりで自分と次の約束を取り付けたがるのかは知らないけれど。 今日のことは、アイスを奢ってもらってラッキーだったとそれぐらいに思っておけばいい。 けれど、これ以上先走ってはいけない。 一週間も経てば。 人間、気が変わることだって充分にあるのだから――― 期待をしないこと。常に最悪を想像すること。 世の中の世知辛さが骨身に沁みている高耶の、それが彼なりの処世術だった。
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