平静を装いながら、二階席への狭い階段を上っていった次の木曜日。 男はすでに其処にいて嬉しそうに片手をあげて合図するから、高耶も当り前のような顔をして向いに座った。 こうして、毎週ごとの逢瀬が始まった。 一ヶ月が過ぎる頃、根負けする形でさらに一回、日曜の夕飯を相伴することになった。 日時はやっぱり高耶の都合に合わせてくれたのだが。 『明日は月曜なんだぞ?オレは休みだからいいけど。おまえにはまた一週間分の仕事が待ってんだぞ? オレにかまけるより先に今晩はゆっくり休んで英気を養っておこうとか思わないわけ?』 思う以上に時間を過ごしたのに気づいた高耶が呆れたように文句つけると 『あなたと会う以上の英気の補充なんてありませんよ。つきあってくださってどうもありがとう。高耶さん』 そう弾むように返されて言葉に詰まった。 高耶にとっても、それは間違いなく楽しい時間だったから。 こんな男がいたのかと、しみじみと高耶は思う。 完璧な容姿。恵まれた育ち、境遇。 何から何まで自分と違うこの男とは絶対反りがあわないだろうと無意識に考えていた。 それは直江もきっと同じことで。だから、話下手でなんの面白みもない若造のことなんて、 最初の物珍しさがなくなってしまえば自然と離れていくだろうと、心の中で構えていた。 でも、直江は。 何度会っても最初と変らず、心のこもった穏やかで丁寧な言葉と態度で高耶を遇してくれる。 頑なだった気持ちが少しずつ解れていく。 が、高耶にまたひとつ災難が降って湧いたのも、そんな頃だった。 突然にアパートの立ち退きを求められた。 一方的に退去期限を切られ、旧い建物はすぐにも解体して更地にするという。急死した家主とそれを相続する家族にも切羽詰まった事情があるらしく、否とはいえない状況だった。 微々たる金高だが慰謝料代わりの引越費用は払って貰える。 けれど、肝心の次の住処を、高耶はなかなか見つけることが出来なかった。 思いあぐねて、不動産にも係わっているという直江に相談してみた。 まさかこの男が安価な物件を扱うわけもない。が、 同業者の伝手を辿ればそういう不動産屋を紹介してもらえるかもしれないと、そんな思いで。 けれど。 高耶の話を聞くや否や、直江は即座に断言した。 「うちにいらっしゃい。部屋なら空いてますし、マンションでの一人暮らしですから誰に気兼ねも要りませんよ」 「冗談」 もちろん、間髪入れず断った。が、なおも直江は食い下がる。 「築七年。駅から五分コンビニ一分の好立地です。 生活圏が重なってますからバイトに通うのもさほど不便じゃないと思いますが……」 そういう問題ではなくて、と、高耶は歯噛みする。 今だってこの男にはいろいろ気を使わせている。食事だって珈琲だって奢ってもらってばかりの立場だけど。 けれど、住居まで世話になるのは行き過ぎだ。次元が違いすぎる。 まるで根っこをすっぱり断ち切られて水差しに活けられる花のよう。 細々ながら培ってきた自分の生活基盤まるごとを他人に委ねてしまうなんて真似、そら恐ろしくてとても出来ない。 「とにかく、却下。話になんない」 断固とした拒絶に直江は暫し黙り込む。少し強く出すぎたかと高耶が不安になった時、再び彼は口を開いた。 「あなたは独立心の強い人だから。そのプライドを軽んずるつもりはないんです。 でも、客観的にみても今は時期が悪い。 引越し先が見つからないというのも、つまりはそういうことでしょう?」 一歩ひかれて諭されて。今度は素直に頷けた。 同じことを、もう何度も不動産屋で言われていたからだ。 「年が明ければまた少し状況は変わってきます。あなたの希望に添う物件もでてくるでしょう。 だから、それまでの繋ぎに下宿するんだと思えばいい。 急ぐあまりに不利で不本意な契約を結んでしまうよりは半年だけ我慢して時機を待つ……そう割り切って考えることは出来ませんか?」 柔らかな口調で語られる言葉が心に染み込んでくる。そこにあるのは、自分に向けられた有り余るほどの厚意だけだから。 「でも……」 「でも?」 まだ躊躇っているとあやすみたいに問い返された。 「おまえにはどんどん借り分だけが増えてって。……だから、居たたまれなくなる」 掛け値なしの本音、苦しい胸の内を吐露したというのに、男は破顔一笑した。 「別に貸してるつもりはありませんよ?あなたと会うのはとても楽しい。 だから一緒に暮らせればもっと毎日が楽しいんじゃないかと、私がそう思うんです」 あんまり幸せそうに言うもんだから、つい茶々を入れたくなった。 「でも距離が近すぎるとお互いアラが見えてきて嫌気が差したりするんだぞ?」 直江は真顔で黙りこくった。 「……そうならないよう、努力します。あなたに嫌われたりしたら元も子もない」 これまた断固とした発言に、ぷっと高耶が吹き出して。 場が和んだのを計ったように、直江が付け加えた。 「入りきらない家財道具はトランクルームに預けましょうね。大丈夫、人の住む部屋よりはずっと安上がりに済みますから」 何も心配はない。 同居することで高耶の基盤を脅かすことはしないし、その気になればいつでも引き返す道はあるのだと遠まわしに教えられた思いがして。 ようやく高耶は心から同意することが出来たのだった。
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