思い煩うことなくすとんと眠りに落ちたのはずいぶん久しぶりだったと、後から高耶は思い返す。 翌朝、恐縮しきりの高耶の詫びを、一夜の宿主である椌木老人は手を振って一笑した。 顔を洗って来いと急かされ急いで身仕舞いをして戻って見れば、炊き立てのご飯と熱々の汁椀が用意されていて。 それが、十年一日、ずっとこうして三人で食膳を囲んでいたような錯覚さえ覚える日々の最初の一日だった。 野菜の収穫。ほだ木の運搬。ちょっとした町への用足し。 果ては柿もぎから、畑に出没する猿の追い上げまで。 毎日の野良仕事の中には若くてフットワークの軽い高耶が手伝えることがたくさんあったし、椌木たちもまた下手な遠慮はしなかった。 身寄りがないこと、事情があってアパートを引き払い今は気ままな旅の途中であることは、酔ったはずみにうっかり口にしてしまったらしい。 それならば好きなだけ此処にいてくれたらいいと二人は口を揃え、高耶をまるで実の孫のように扱った。 もっとも通帳とカードを渡され、農協の口座から現金をおろしてきてくれと頼まれた時には耳を疑ったが。 信用してくれるのはありがたいがあまりにも無用心にすぎるのではないかとやんわり苦言を呈すると、老人はからからと笑っていった。 盗られて困るほどの金は入っとらんと。 それに、おまえさん相手にそんな心配はするだけ無駄というもんだ。なあ?と、傍らの媼に話し掛けて。 にこにこと同意する媼の表情がそのまま高耶への慈愛の深さだった。 本当の孫には実は会ったこともないのだと、椌木老人は高耶と二人きりの時に打ち明けた。 三十年も前に出奔した倅が一度手紙で知らせてきたきりで、 その後も音信が途絶えがちのまま倅は亡くなり、とうに離婚して母親が引き取ったというその子どもの行方も解らずじまいなのだと。 だから同じ年頃同じ名前の高耶のことを、嬶は、神さまが孫の代わりに引き合わせてくださったんだと信じとる、とも。 都合のつく限りでかまわない。しばらくの間だけでも、嬶に孫と暮らす夢を見させてやってくれと頭を下げられて、目頭が熱くなった。 高耶の両親はふたり事故で亡くなったから自分はこの椌木たちの孫ではありえない。まったくの他人だけれど、そうして肉親と暮らすことは 高耶自身がなにより渇望していたことだったから。 直江の時にはあれほど躊躇った寄宿の申し出を苦もなく高耶は受け入れて、 そう出来る自分がいっそ不思議だった。 なんでだろう?と考えるまでもなく答えは胸の内に在る。 たぶん、椌木たちには子を失った哀しみと無念が心にぽっかり穴をあけていて。 身内のいない自分もそうで。 その欠けた部分が互いを必要としていて、補うみたいに心が呼びあうのだ。きっと。 だからこんなに凪いだ気持ちで過ごしていられる。不安に思うことはひとつもない。 なのに。 夜は冷えるからと媼が高耶のために綿入れを仕立ててくれた。 真新しいそれにありがたく袖を通しぬくぬくとした格好で満天の星空を見上げる。 こうして媼の心尽くしは素直に受け取れるのに。 なぜ、直江の時には、あんなにも心苦しかったのだろう―――? (…高耶さん…) 凛々と星降る大気の中、あの男の声を聴いた気がした。
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