「……直江がポケットからケータイ抜いた拍子にひらひら落っこちたもんが見えてさ。近づいてみたら名刺だろ?
放っといたら人に踏まれそうだしひょっとしたら大事なものかもしれないし。咄嗟に拾い上げて追っかけたんだ。
でもやっと声を掛けたのに、おまえ、ぽかんとするだけだったから。その場を離れながら、
あちゃ〜、余計な真似して失敗したかなって、少し凹んだ。
でもさ、名刺って社会人にとっては『自分の顔』と一緒だって言うじゃん?たとえ要らないものだとしても、道端にポイ捨てしていいわけない。
処分するにしてもそれなりの手順があるはずだから、おまえにはゴミかもしれなくてもそれを持ち主に突き返したのは間違っていなかったって、
オレ、あれからしばらく、一生懸命理屈を捏ねて自分を正当化してたんだぜ?」 そんなことを苦笑交じりに打ち明けてくれたのは、いったい何度目の逢瀬だったか。 その良識がなければこうして彼と知り合うことすらなかったのだと思うと、改めて、心から感謝せずにはいられなかった。 あの日、夕食がまだだという彼は遠慮がちにパスタのセットを頼んだ。 直江もメニュウを選びながら、それとは別に少し豪華なデザートプレートも追加した。 吃驚したように見つめてくる彼に、微笑みかける。 「お若い方にはセットにつくジェラートだけじゃ物足りないでしょう? もっとも甘いものがお嫌いじゃなければいいんですが」 困ったみたいに尋ねると、たちまち彼は赤くなって俯いて、嫌いではないですと、小さな声で呟いた。 饒舌な人ではないようだった。 まだ見知らぬ他人に等しい自分に向き合っている、その事実を差し引いても。 それでも料理が運ばれそれを口にするうちに、次第に彼の固さも取れてくる。 ぽつりぽつりと会話が成り立ち、何より美味しいものに瞳輝かせる彼の表情がとても雄弁で。 楽しい時間はたちまち過ぎる。 別れ際、馳走になった礼を訥々と語るその口調が彼の人となりを偲ばせて、好ましかった。 同性の彼に自分の想いを正直に告げるのは躊躇われたから、一度きりのお礼代わりの食事の終ってしまった後、 次の口実を探すのにずいぶんと腐心をした。 先ずは顔見知りの客になって。 ほんの時たま、バイト帰りの彼をお茶に誘って。 たまたま手に入ったからと映画の試写会のチケットを進呈して。 まどろこしい手順を繰り返して、ただの客から知人へと格上げしてもらう。 少しずつ彼の口調が砕けたものになっていく、その些細な変化がたとえようもなく嬉しかった。 「なんでこんなによくしてくれるの?誘うなら女の人だろ?普通?」 一度、真顔で彼に訊かれた。 「末っ子で育ちましたからね、一度誰かを甘やかす立場になってみたかったんです」 こんな時にと予め想定していた答えをよどみなく返した。 「ふ〜ん。ヘンなの」 口では呆れたように言いながら、まんざらでもない顔をしてくれる。 「まあ、オレにも妹がいるから。その気持ち解らないでもないけどさ。でも構いつけたいのがオレみたいなオトコでほんといいのか?」 高耶だからこそ構いつけたいというのが偽らざる想いなのだけれど。 その奥にある恋情を仄めかしたら、彼はきっと身を翻してしまうだろう。 だから口にしたのは半分だけ、それでも掛け値無しの真実。 「あなたといるのは楽しいから。便利な兄貴が出来たと思って好きに使ってくれてかまいませんよ?」 兄貴でもただの便利な知り合いでも。 彼に好いていてもらえるのなら。 「……直江ってやっぱり、ヘン。それって逆だろ?普通は弟分が兄貴のパシリをするもんだろ?」 くすりと笑って見上げてくるその真っ直ぐな瞳を間近で見つめていられるなら。 「おや、頼んだらしてくださるんですか?」 「まっぴらゴメンだ」 こちらの軽口に、心安い友達にでもするようにしかめっ面をしてみせる。 そうやって彼が自分の傍で寛いでいてくれるなら。 それで充分だった。 ――――そう、本気で思い込み、心に枷を掛けていた。 |