主たる直江は不在だというのに、その日の晩餐もいつもと変わらるところはなかった。 熱っぽさの引かない身体を自室で休めていた高耶のもとに、執事である生島が、恭しく食事の時間を告げに来る。 その言葉に促されようにして着替えをし、ダイニングに向かった。 天上の高い広々とした空間。 贅沢な調度。 灯される蝋燭。飾られる花。 柔らかな光に照り映えるカトラリー。 テーブルの側、慎ましく控える数人の使用人たち。 なによりも、その背景に相応しく贅をこらした料理の数々。 すべては、高耶一人のためだけの、格式ばった正餐の宴。 それが、いたたまれなかった。 上質のカラーで隠した頚から下には数えきれないほどの直江の所有印が烙されている。 昨日までとは違う。この身はすでに使用人以下、閨奴隷の境遇にまで堕ちてしまったというのに。 なおこうして彼らを侍らせ、給仕させていることへの面映さが高耶を苛む。 完璧なサーヴィス、無表情な仮面の下で、彼らは自分を嘲っているのではないだろうか。 そんな疑念が頭から離れない。 食欲などない。 それでも残すような不調法はなおのこと憚られて、皿に供されたものを機械的に口に運んだ。 味もわからないまま、どうにかデザートまでを食べ終える。 だから、高耶の不調を察したらしい生島に食後の珈琲を居間に運ぶかどうか問われた時には、心底救われた思いがした。 一も二もなく頷いて席を立ち、高耶の退出に慇懃に頭を下げる彼らの脇をすり抜ける。 この気まずい茶番から、一刻も早く逃げ出したくて。 崩れるように安楽椅子に身を沈めてほどなく、ノックの音とともに生島がワゴンを押してくる。 礼を言ってカップを受け取り申し訳に一口含むと、高耶は、邸内を束ねる目の前のこの男に、意を決してこう切り出した。 直江に相伴する時以外、自分のために贅沢な正餐を用意することはない。 使用人と同じ献立でかまわないし、その食事も部屋で摂るからと。 その申し出に、年嵩の彼は穏やかに耳を傾け、そしておもむろに拒絶した。柔らかな口調、困ったような声音で。 「それは私の一存では計りかねます。高耶さま」 「でも…」 彼だってすでに承知のはず。高耶がどういう立場になったのかは。 今までのように、主の庇護する後見人として自分を立てる必要もないはずだ。 実直な執事である生島は、そんな高耶の逡巡を断ち切るように厳かに言葉を重ねた。 「旦那様は仰いました。貴方様におかれましては、今後ともご自分同様、いえそれ以上に鄭重に遇するようにと。 あの方の決定は私どもには絶対でございます。そのお言葉に背く者などこの屋敷にはおりません」 ですから、どうぞ今まで通りにお過ごしくださいませ、と。 衷心から言われて高耶は戸惑う。 彼にそう命じた直江の意図が掴めずに。 いまだ自分を貴族の子弟として扱うことに、一体どんな意味があるのだろうかと。 考えに沈む高耶の様子が、まるで途方に暮れた子どものように見えたのだろう、 諭すように、彼は続けた。 「旦那様はたいそう公正な御方でいらっしゃいます。 先程背く者などいないと申しましたのは、旦那様を畏れるからではなく、皆、心から敬服しているゆえなのでございますよ。 使用人にとって、あの方以上に仕え甲斐の主人は他におりません。 職分を全うするものには、それがたとえ下働きの小僧に過ぎなくともきちんと目を掛け、働きに報いてくださるのですから」 だから。自分を含めて彼らに遠慮することはないのだ。主たる直江が礼を尽くす高耶の境遇は、今までどおりに傅かれる身分なのだと。 おそらく、彼はそこを強調したかったのだろう。 だが、今の高耶には、客観的にその真意を汲み取ることは出来なかった。 心に引っ掛かったのは、「職分を果たすものは報われる」という一句。 冷静さを欠いた思考は、さらに小昏い深みにはまり込む。 つまり、自分は何処までも男に従いこの身体で悦ばせねばならないのだと、改めて男の腹心に念押しされた思いで、暗然とその言葉を聞いていた。 もうそれ以上の会話はなく、空にした茶器とともに生島が引き下がるのを見届けた後、 高耶はバスルームにこもった。 昼間、教えられたとおりの処置を自らの身体に施す。 強制的に体内に入れた温水は、覚悟していた以上に強烈な腹部の差し込みと排泄欲とを誘発して、最初の洗浄が済んだ後には 手足の力が抜けるほど激しい苦悶をもたらしたけれど。 竦みあがる心と手とを叱咤しながら、二度三度と繰り返した。 諾々と言いなりになったわけではない。 異物で裂かれる痛みとともに、湧き上がった別の衝動の苦しさを身体はまだ憶えている。 この夜に、これからどんな仕打ちが待ち受けていようと。 少なくともあの男の目の前で粗相をする醜態だけは曝さなくてすむと、 せめてその一事にだけでも縋りたかったのだ。 最後に自分に残された、なけなしの矜持を守るために。
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