「……直江……」 身間違えようもなかった。 やつれた貌、顰められた眉、物憂げに凝と見つめる眼差し――― 実体ではない。淡い燐光に縁取られ半ば透けて見えるその姿は、生身でなく亡霊の類。 それでも、この瞬間を待ち焦がれていた。 自分がその死の一端を担っていたとしても、別れ際の約束は果たされることはないと 知っていても。心の何処かでは迎えに来るという直江の言葉にずっと縋っていた。 「来てくれたんだ……」 直江だって解っていただろう、自分が兄の下でどういう役回りをしていたか。 一度距離を置いてしまえば危険を冒してまで獲得する価値はないと見限られていたっておかしくはない。むしろ恨まれる方が自然なのだ。 結果として彼は兄の望み通りに動き、自身の命を失くしたのだから。 今、目の前に現れたのは、むしろそれが理由だろうか。 「成仏できないほどオレのこと怨んでる?……それとも、今のオレを嘲笑いにきたか?」 声が震えた。 直江はただ哀しげな瞳で見つめるだけだ。その静謐がたまらなかった。 「ずっと、待ってた。……勝手だけど、ずっと待ってたんだ。おまえが迎えに来てくれるのを」 直江の心はすでに離れたのだとあの世で思い知るのが怖くて、自ら後を追うこともでず、ただ生きていた。心を殺して。抜け殻のようになって。 身体を好きなように嬲らせながら。 凝らせていた感情が溶けていく。 兄に命じられるまま、あれから幾度となく繰り返された夜伽の奉仕、義父となった男に夜毎抱かれる嫌悪、 不躾な視線に曝される屈辱、痛み。 感じまいと沈むに任せていた澱が一気に表層に噴き出す。身を覆う厭わしさにぼろぼろと涙が零れた。 「もう、いやだ……」 絞りだした言葉は慟哭のようだった。ふらりと高耶は立ち上り、二歩三歩と直江に近寄る。 「……頼むから、連れて行って」 身を乗り出して手を差し伸べた。 「こんな生命でよければくれてやる。だから」 一緒に連れていってほしい。奈落の底まで。 (……高耶さん……) 名を呼ばれた気がした。 端正な貌がふわりと緩んで、引き結んでいた唇がやわらかくその音を紡ぐのを確かに見たと思った。 許されたのだと思いたかった。 今なら告げてもかまわないだろうか。 「おまえのこと、ずっと―――」 愛していた、と。 想いの丈をはっきりと言霊に載せて高耶は手すりを乗り越え、虚空に浮かぶ直江めがけて身を躍らせた。 それとなく露台を窺っていて一部始終を目撃した婦人の喉から悲鳴が迸ったのは、その一瞬後。 振り向いた人々の目に、白く眩い閃光が映る。 幾つかの怒号が響き露台に殺到した人々が見たのは、燐光をまとい天高く上る龍の勇姿と長く尾を引くその残影。 露台から落ち石畳に叩きつけられたはずの高耶の姿は何処にもなかった。数々の嘆きを残し、龍の顕現とともに忽然と彼は姿を消したのだった。 まことしやかな噂が流れた。 北条の家から鴫立沢の養子に入ったあの妖精族のような若者は、実は龍の化身であったのだとか、 或いはその才を愛でられ龍神に召されたのだとか。 龍は帝位の象徴。帝を庇護する守護聖獣。 御伽だとばかり思っていたその存在を目の当たりにして、何世代もの間廃れていた黴臭い古謡にまた新たな生命が吹き込まれる。 市井の炉辺の子どもたちに。そして密やかな熱意をもつ宮廷人の子弟たちに。 龍との契りを切々と謳った帝国の父祖のサーガは、次第に、人々の間に復古の機運を高めていく。 時代はまた静かに動きはじめていた。 |