恐ろしくはなかった。 むしろこれで直江の許へ行けるのだと安堵しながら空中へ身を躍らせた。 直江は自分を受け止め抱きしめてくれたのだと思う。まなうらが皓く染まり、光に包まれる感じがしてふっと身体が軽くなった。 大丈夫。怖くはない。 そう思えることが誇らしくて、高耶は微笑みながら大地へ叩きつけられる瞬間を待った。 けれど、いつまで経ってもそれはやってこなかった。 (……?) おそるおそる意識を外へと向けてみる。そして、衝撃に備えて無意識に固く強張らせていたとばかり思っていた身体が、 実は身動ぎも叶わないほどきつく抱きすくめられているのに気づいた。 幻影ではない生身の力強さだった。 光に灼かれて盲いた眼に、徐々に視界が戻ってくる。最初に見えたものは緞帳の垂れる石造りの壁。広い肩口、 そしてこそばゆく頬に掛かる柔らかな髪。 (え……?) こんなことはありえない。自分は屋外の露台から飛び降りたはず。それが、何故、 こんな室内で、しかも――― 「高耶さん……」 声が響いた。記憶の中のからではなく確かに耳から、そして密着していた身体に、直接。 忘れようもない、懐かしい声が。 (嘘だ……) それでは、今、自分を抱きしめているこの男は――― 「直江…?」 頼りない子どもみたいな声に、微かに笑う気配がした。 ほんの少し身体に回っていた腕が緩んで身じろぐ余裕を作ってくれる。 そうして見上げた顔は、やつれて憔悴しきってはいたけれども、確かに直江本人だった。 「いやあぁぁ―――!」 生きていた。死んではいなかった。突然突きつけられた現実に、喜びや驚愕より先に拒絶の絶叫が喉を衝いて出た。 狂ったようにもがく高耶の抵抗を直江も力ずくで封じ込める。 「離せっ。離せよっ!」 抗いきれない膂力の差にすすり泣きながら、高耶は直江を拳で打った。 命を捨てるなら許されると思った。ともに黄泉路で寄り添うのなら現世で穢れたこの身も不問にされるかと。 けれど、直江は生きていた。 その間、自分は何をしていた? 直江が生きているというのに他の男に身を任せていた己の所業の浅ましさに胸がつぶれそうだった。 ひとしきり暴れても一向に拘束は緩まない。終いには息が上がって胸にもたれ、涙声で哀願した。 「頼むから、離して……」 とても傍にはいられない。一刻も早く消え入ってしまいたい。 此処で。この男の腕の中で。 こんなふうに泣く資格は自分にはないのに。それでもこうして縋っている自分が惨めで仕方なかった。 なのに。 「……ずいぶんと辛い思いをさせましたね」 そう囁く直江の声は慈しみに溢れていて。 おとなしくなった高耶の髪をなだめるように梳いていく。 「もう、離しませんよ。絶対に。あなたは私だけのものです」 静かな口調だった。けれど厳かな決意に満ちた誓いの言葉でもあった。 いいですね、と、駄目押しするみたいに間近に瞳を覗き込まれて、唇が戦慄く。 高耶の自責や煩悶は歯牙にもかけない。 これまであったすべてのこと、まるごと全部をひっくるめて受容する気なのだと、その覚悟がはっきりと読み取れたから。 応えはとうとう返せないまま。 積年の哀しみを洗い流す勢いで高耶は直江にしがみつき、声を上げて泣いた。 その間、幼子にするように直江は高耶の背中をさすり、頭を撫で続けていた。 泣き疲れた高耶が、泥のような眠りに落ちるまで。 |