雨の日に、車の前に飛び出してきた少年。 人通りのない山道のこと、昏倒したままの彼を放ってもおけず、とにかく最寄の診療所へ運び込んだ。 くず折れるように路面に蹲った少年は高熱を発していた。雨に打たれたせいだろう、肺炎をおこしているというのが知り合いの医師の診たてだった。 そこで手を引いてよかったはずなのだ。 制動は間に合った。車体が彼に触れたわけではないから事故による外傷もない。自分に何ら、落ち度はないのだから。 それでも、捨て置けなかった。このままでは後味が悪いからと、自分に言い聞かせて病室に通うのが日課になった。 やがて数日が過ぎ意識が戻った彼には言葉がなかった。どうやら記憶も。 他人におびえ身を竦ませる少年の頑是無い仕種が、たまたまその場に居合わせた自分に向けられた縋るような眼差しが、眸に焼きついて離れなかった。 熱の所為ではあり得ない。頭部を強打したわけでもない。 言葉の出ない彼の容態を不審に思いしつこく質す男に、医師はついに重たい口を開いた。 薬剤を打たれていた可能性がある。 そして、かなりの期間手足を拘束され、暴行を受けていた形跡があると。 『薬』という単語の重みに、男の思考が一瞬麻痺する。とても現実のこととは思われず、続く言葉の意味もすぐには読みとれなかった。 暴力沙汰とは無縁そうな線の細い少年だ。一見してそれと気づくような殴打の痕も見られない。それなのに暴行――とは? 懇意にしている医師のその見慣れた顔の造作を、まるで答が書いてあるかのように、ただ見つめた。 どす黒い疑念がじわじわ形を成してきた。 (まさか。あんな子どもが!?) 思い描いたおぞましい想像に虫酸が走る。だが、自分を見据えたままの医師の眼の光が、それが真実なのだと語っていた。 驚愕を顔に貼りつけ、絶句した男に、静かに問い返す。 「そんな惨い仕打ちをされたら、精神に変調をきたすのも、ショックで記憶を無くすのも無理はないと思わないか?」 そう言う彼の声もひどく掠れていた。 「どんな事情があったのかはしらん。だが、誰かがあの子の自由を封じ、力ずくで犯してその魂を殺した。これだけは確かだ。道端にいたのはもう用済みと放り出されたか、或いは自力で逃げ出してきたか―――」 片手は白衣を鷲掴み、机に載せられたもう片方の拳が握りしめられ、激情に震えだすのを、呆然と男は見ていた。 (ああ、ちっとも変わっていない。こいつは昔から熱血漢だったな) 血の気をなくして白くなった爪を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えた。 しばらく逢うこともなかったこの医師とは、子供の頃からのつきあい、男の、歯に衣着せず意見する数少ない友人だった。 「彼は―――これからどうなる?」 男の問いに医師は無言でかぶりを振った。 「治るかという意味なら、それは俺にも解からん。身体の方はもちろんきっちり回復させる。が、心の傷が癒えるにはかなりの時間が要るだろう。 犯罪のにおいもするし今後の処遇ということなら、然るべき筋に届けて身柄を委ねるのが妥当だろうな」 己の非力を呪うような、苦いものを吐き出す口調だった。 それが賢明な判断だと男も思う。 けれど、なにかが同意を躊躇わせた。 「俺が、預かるわけにはいかないだろうか?」 「おまえが?」 長い沈黙を破った男の言を、医師が怪訝そうに繰り返す。居たたまれずに、言葉を重ねた。 「もし、退院までに彼の身元が知れなかったら、そして特に医科的措置が必要なくて素人でも看護できるなら、だが。 しばらく此処に滞在する。食事や身の回りの世話ぐらいなら、俺で充分ひと一人の面倒は見られると思う。その……彼をまた違う環境に放り込むのは気の毒だ。他人にひどく怯えるようだから……」 しどろもどろに理由をつけながら、詭弁だと自分でも思った。 その場しのぎの思いつき、手前勝手な言い分と、謗られるかとも覚悟した。 なにしろ引き取ろうとする相手は一人の人間。犬猫を拾うようなわけにはいかない。 が、目の前の医師はなにも言わずに深い目で男を見つめ、ただ頼むと頭を下げた。そうしてくれれば、助かる。と。 この男はなにもかも承知なのだと、奥底に隠れた自分の真意まで察したのだと、その時、覚った。 男は死病を患い、余命を告知された身だった。
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