思いのほかに、彼には手が掛からなかった。 身体が日常の動作を覚えこんでいるのか、彼はゆったりとよどみなく動く。食事でも着替えでも、その他のことでも。軌道上を歩む、精緻なカラクリ人形のように正確に。 そして彼は、人形のように従順だった。快も不快も、拒絶の意思も示さない。 一度座らせれば何時間でもそうしている。たとえそこが強い陽射しに曝される窓際の席だとしても変わらぬ姿勢で。 白雨が吹き込めば避けるでなく濡れ尽くし、もしも立たせていたとしたら、きっと倒れるまでそのままでいるのだろう。 意思も判断力も感情も。 人格を形づくるもの一切を無くして。 本当に壊れてしまっているのだと、そう思わずにはいられなかった。 そんな彼がやるせなくて可愛そうで、思わず、白皙の頬に手を伸ばす。 虐待を知る身に男の手が触れるのは、負荷を強いるだけだろうか? 一瞬そんな躊躇いも脳裡を過ったけれど、触れられたその手を払うでなくこちらに視線を向けることもなく、けれど彼は、静かにすべての動きを止めた。発条が切れたように、虚ろな瞳を瞠いて。 おずおずとその身体に手をまわす。彼の手足が、力をなくしてだらりと伸びた。 抱き寄せた身体はこんなに温かいのに。とくとくと鼓動の音も響くというのに。 この器に宿っていた精神はすでにない。 いったいどれほどの闇を潜ればこうなってしまうのか。 生きながらに死んでいる今の彼を目の当たりにし、嘗ての彼の絶望を慮って、男は、彼の代わりに涙を流した。 怒りも悲しみも超越して、そこに在る彼。 そんな彼にかしずき世話を焼くのが、いつしか、男の無上の喜びとなった。 晴れた日には、出来る限り彼を外へと連れ出す。 家の周囲、薫風の吹き抜ける木立を散策し、鳥の囀りに耳を傾け、道端に咲く花に目を留め、そのひとつひとつを彼に教える。 今は心に届かなくても、微風のそよぎや小鳥の声や花の色の鮮やかさを、目や耳や肌が、憶えていてくれるように。 陰鬱な雨の降る日には、窓打つ雨音を聞きながら、息潜めるようにしてふたり身を寄せあって過す。 最初はまんじりともしなかった彼も、やがては男にもたれて寝息をたてるようになる。 そんなちいさな変化がたとえようもなく嬉しい。 一日が千年にも、或いは、一炊の夢のようにも思える不思議な時間。 彼が治っても治らなくても。 いつか、自分が消えてしまった後も。 常に傍らにあった人肌を覚えていてくれればいい。まだ長い彼の生の中で、四季折々移り行く風景の中に何かが足りないと、そんな感覚を抱いてくれることがあったら。 たとえ記憶には留めなくても、彼の身体が自分の存在を憶えていてくれたら。 こんな幸せなことはない。 それが男の望みだった。
|