キャットニップの薫る庭
―2―





大きな掌にすっぽりと包み込まれる感覚と穏やかに語りかけてくる声音が、最初の記憶だった。
それと夢うつつの中で聞く、ゆったりとしたリズムを刻む鼓動の音と温かな温もり。
まめまめしく世話を焼いてくれる直江という存在。
それが小さい自分の世界のすべてだった。


高耶は母親をしらない。
母親だと思っていたもの、それが実は『人間』であり、『飼い主』であり、まあ、おまえ専属の世話係みたいなもんだ……そう教えてくれたのは千秋だった。
初めて遭遇った自分と同じ姿の生き物。 
草のにおいが気持ちよくて、庭先でいつものようにバッタとじゃれていた自分に、呆れたように声をかけてきた、それが彼だった。
〈おこちゃまだな。そんなままごとが楽しいか?〉
降ってきた言葉に振り仰げば、塀の上に寝そべってこちらを見下ろしていた見知らぬ猫と視線があった。
ひとを喰ったような琥珀の瞳、飴色の艶やかな毛並み。
きれいにとがった耳とすんなりと伸びた四肢。
自堕落な姿勢で、もう興味は失せたといわんばかりに欠伸をひとつしてみせると、 次の瞬間には体重を感じさせない軽やかさでひらりと向こう側に消えてしまった。
その優美な仕草に見惚れていたのはほんの一瞬。
〈なんなんだよ?〉
次の瞬間には、訳もなく怒りが込み上げてきた。
無視されることには慣れていなかったのだ。
無我夢中で塀をよじ登って、彼と同じ目線に立ってみれば……世界が広がっていた。
反射的に尻尾を巻いて逃げ出したくなるような圧倒的に広大な『外』
それでも一歩を踏み出させたのは勇気なんて格好のいいもんじゃなく、あの傍若無人な猫に対する敵愾心ゆえだった。
そうして塀から飛び降り、後を追いかけた自分を追い払うでもなく、意外にも彼はあっさり受け入れてくれて、振り上げた拳のやり場に困ったことを、今でも高耶は覚えている。 ヘンな奴…と思ったことも。


そのヘンな奴と、気がつけば自分はすっかりつるんでしまっている。
そう考えて高耶はくすりと笑いを漏らした。
キャットニップの繁みのわきでの日なたぼっこ。
もともと大好きだったこの時間が、傍らに千秋がいるようになってもっと好きになった。
今もふかふかのお腹に頭を乗っけてぬくぬくとした感触を分けてもらっている。
血の通う毛皮の心地よさは、唯一、直江の教えてくれないことだったから。
〈直江…。〉
ちくりと胸のどこかが痛んだ。
直江の様子が最近おかしい。
それは、梅雨時の空に似ていた。昏くよどんで湿った雰囲気。
自分に対する態度は何ひとつ変らずに穏やかだけど、時折、体が竦んでしまうような剣呑な光がその眼の中に浮ぶ。
高耶にはその意味がわからない。わからないけど不安になる。
こんな感情は初めてで、ひどく重たいものだった。

猫は湿気を嫌う。
同じ温もりを求めるにしても、からりと晴れた千秋のそれに惹かれていったのは、まあ、仕方のないことかもしれない。
それがますます直江を落ち込ませる、悪循環になるとも知らずに。
 



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高耶さんてば高耶さんてば…





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