千秋の行動半径はとてつもなく広い。 〈飯を食いに行く。〉 そう誘われて軽い気持ちでついていったら、これがまたとんでもなく遠方なのだ。 ありついたご飯は極上で、千秋の『知り合い』という女性も感じがよかったけれど、 慣れない距離を移動した上に初対面の『人間』の前でそれこそネコを被っていた高耶は、緊張の連続ですっかりへばってしまった。 そんな高耶をよそに千秋は元気溌剌である。 つい恨みがましい眼つきで見つめる高耶に、こともなげに言い放つ。 〈ばーか。野良猫なんてみんなこんなもんだぞ?おまえが甘やかされすぎなんだよ。〉 〈?〉 当たり前のことを言ったつもりなのに、このちびネコには常識が通じない。 千秋は結局、猫族のヒエラルキーについて語るはめになった。 猫にも飼い猫と野良の区別が厳然とあって、本来両者は相容れないものだという。 そして高耶は『飼い猫』、千秋は『野良』なのだ。 〈まあ、飼い猫だってそう悪いもんじゃないんだぜ?〉 せっかく仲間だと思っていたのに、おまえは違うと言われたみたいでしょげてしまった高耶に、千秋が気休めのように続けてくれた。 〈エサも寝床も心配ない。冷たい雨に濡れることだってない。ただ少しばかりうざったいがな。〉 〈うざったい?〉 〈まあ、勝手気ままに振舞えなくなるからな。多少はお行儀よくしなきゃなるまいよ?〉 〈かってきまま?お行儀??〉 まるで異国のコトバを聞くようにハテナマークを貼り付けているこの箱入りのちびネコに無頼を気取る千秋はだんだん苛々してしまった。 〈だーかーらー、柱や箪笥で爪を研いで怒鳴られたことぐらいおまえにだってあんだろ?〉 〈ない。〉 高耶の返事は即答である。 〈なにい?ない?じゃ、クッションを食いちぎったことは?服をボロボロにしたりとか?ないとはいわさねーぞ。このバカちび。こりゃ猫の本能だからな。〉 むっとしなから、高耶は応える。 〈それはあるけど……爪を立ててもぼろぼろにしても直江は怒んなかった。〉 今度こそ千秋が目を剥いた。 〈むず痒いの我慢できなくて机の脚をガリッてしたら、もっと研ぎ心地のいい柱をくれたし、 クッションを破いたら、オレ用にってキモチイイの、いっぱい用意してくれた。 いつだったか直江の匂いのするセーターに絡まってもがいてたら、仕方ないですね……って、それ、オレの寝床に敷いてくれたんだ。〉 千秋の肩ががくりと落ちる。 〈おまえ…とことん愛されてんな。そりゃあれだ。直江って人間は筋金入りの馬鹿ってことだ。〉 〈なんだよ。そのばかっていうのは。〉 〈おまえにゃあ、お似合いの飼い主ってことだよっ!帰らなくていいのか?いとしのダンナが心配してるぜ?〉 さっきからちくちく突き刺さる視線が痛くて仕方がない。 振り向かなくても気配で判る。 そのダンナが自分をまさしく泥棒猫とみなし、窓から様子を窺っているのだ。 〈うん……。〉 珍しく高耶が言葉を濁して、煮え切らない様子を見せる。 感情を隠せない解りやすい性格をしていたから、これには少々驚かされた。 俯く様が妙にしおらしくて、ついついかまってしまいたくなる。 〈直江が……このごろヘンなんだ。〉 そう訴える黒耀の瞳はうるうるに潤んでいて、見つめられると、また妙な気分になってくる。 あの時もそうだった。 ちょっとからかうだけのつもりだったのに、その瞳に吸い込まれるように、気がつけばコトに及んでいたのだ。 恋人やパトロンは掃いて捨てるほど居ると豪語する一人前の牡猫が、年端もいかない仔ども、しかも同性相手に。 態度にこそ出さなかったが、実はあの後、千秋はひどく落ち込んでしまったのだった。 我を忘れるなんて、まったく自分らしくもないことだ。いつだって夢中になるのは相手のほう。主導権を握るのは自分だったはずなのに。 彼はどんな時でも誇り高い彼自身の主人だった。 その尊厳が高耶の前だとどうもあやしくなる。 迂闊な深入りは自分のアイデンティティーまで危うくしそうで、以来、このちび相手にきわどい悪戯は仕掛けまい…そう心に誓ったのだ。 〈千秋?〉 心細げな声音で高耶が見上げてくる。 これが曲者なのだ。千秋が深いため息をつく。 そこに媚びや演技が入っているのなら突っぱねも出来ようが、あいにく、高耶のそれは本物だ。ここまで天真な仔猫というものに、自分はお目にかかったことがない。 こいつを育てた直江という人間にはどうしても嫉妬と羨望が湧き上がってくる。 認めたくはなかったが、要するに自分はこのオスの仔猫に魅せられているのだ。あの飼い主同様に。 えらく不毛な話ではある。無自覚の仔猫相手に大のオトナが恋の鞘当を演じるのだから。それでも、頼られればなんとしても応えてやりたい。 もう一度ため息をついて促すようにあごをしゃくった。 〈ああ、なんでもねーよ。ほれ?聞いてやるから話してみな?人間にゃあ、いろいろ知り合いもいるからな。相談にのってやれねぇこともねえ…。おおっと、その前に河岸を換えようぜ。薄ら寒くなりそうだ。〉 いつのまにか日が傾いて、長く伸びた建物の影がこの繁みにまで忍び寄ってきた。 小暗くなるその一瞬を逃さずに、おもむろにまだ温みの残る西側の屋根へと上る。 風のあたらない壁際の凹みは、人目にもつきにくい。自分を睨みつけるあの不愉快な視線ともおさらばだ。 ざまあみやがれ。 出し抜いてやった優越感に浸ったのも束の間、高耶のいう『ヘンな直江』のあれこれを聞くうちに、打ちのめされた気のする千秋だった。 |