「ずいぶんやつれてるわね。何かあったの?」 久し振りに訪れた男の家で、憔悴しきった表情で出迎えられて、開口一番の綾子の言葉は男の体調を気遣うものだった。 「高耶さんが……」 そう言ったきり、男が絶句する。 愛猫への彼の溺愛ぶりを誰よりもよく知っているだけに、最悪の事態を予想して綾子の顔が強張った。 「……帰ってこないんだ。どうやらたちの良くない友達に連れまわされているらしい」 ……親ばかここに極まれりの台詞に思わず脱力しかけたが、当人は至って深刻そうだ。 「とりあえず…あんたに必要なのは気付けのアルコールね」 一度姿を消した綾子がでんっとテーブルに置いたのは、ウイスキーのボトルだった。 一見、何の変哲もない外観でいながら使用原料は二十五年もののシングルモルトのみという、知るひとぞ知る逸品である。勝手知ったるなんとやらで書斎から持ち出してきたらしい。 氷を入れたグラスに注いだそれを手に押し付けると、まるで水でも干すように空にしてしまった。 相当に参っているらしい。いつもなら、この男はこんな無茶な飲み方はしないのだから。 ちゃっかり自分にもグラスを用意しながら、綾子はこっそりため息をついた。 高耶の飼い主は、本来は綾子のはずだった。 野犬に襲われ母親と兄弟をなくし、衰弱しながらもたった一匹生き残った仔猫。 こんなに小さくては人の手で育てるのは難しい……駆け込んだ病院で勧められた安楽死を拒否してまで引き取った、生後数日の目も開かない白黒のトラの仔猫。 それが高耶だった。 あの出張さえなければねえ……。再びため息をつく。 アットホームな雰囲気の小さな職場であるのを幸い、仕事先でも世話をする心積もりでいたのに、このときばかりはそれが裏目に出た。 人員のやり繰りがつかずに急な代理取材を申し付けられたのだ。猫を理由に断るなど、とても出来ない状況だった。 切羽詰った綾子は決死の覚悟で育児道具一式とともに、高耶を直江に託したのだ。知り合いの中では一番時間の融通が利きそうだ……ただそれだけの理由で。 賭けのようなものだった。 動物好きとも思えないこの男が手の掛かるばかりの仔猫の世話をしてくれるものかどうか?不安を隠しながら強引に押しつけて、その足で新幹線に飛び乗った。 数回短い質問のメールが届いただけで、やがてぱったりと連絡の途絶えた一週間。 悪い予感に押し潰されそうになりながら、真っ先に男の家へと向った。 仔猫は生きていた。 男の懐深くに抱かれ、温もりを分けてもらいながら。 か細く空腹を訴える声に、穏やかに語りかけ、慣れた手つきでミルクを飲ませ、湿らせた脱脂綿で排泄を促すその様子を目の当たりにして、綾子は悟ったのだ。 この仔はもう自分の手には戻ってこないと。 二時間ごとの授乳のために目の下に隈をつくりながら、直江は、今まで見たこともないような優しい笑顔で仔猫を見つめていた。 「……盛りがついたわけじゃないのよね?」 物思いから、ふと我に返った綾子がおそるおそる確認を取った。 「ああ、それとは違うだろう。…高耶さんといる猫はオスのようだし…」 「ふうん?じゃ、みたんだ?その相手とやらを」 「ああ、図々しく寝室にまではいられたからな。さすがに二度目はなかったが。…あとは庭先でよく寝転がっている。高耶さんお気に入りの繁みのわきで」 「おともだちが出来てよかった、とは……思わないわけね」 凄まじい形相で睨みつけられて綾子が首をすくめた。 「ふらふらとこんな時間まで外をほっつき歩くんだぞ?それでもよかったなんて手放しで喜べると思うのか?」 「でもしょうがないじゃない。あの仔がそうしたいんだったら。一度外での自由をおぼえちゃったら、もう誰にも止められないわ。 ……まさかとは思うけど、閉じ込めようなんて考えていないわよね?」 「考えたさ。……かなり本気でな。他の奴に盗られるぐらいなら、いっそ部屋から出さずに閉じ込めようかとも思った」 「そんなことしたらストレスで死んじゃうわよ」 綾子が猛然と抗議をする。だが、直江は、人に言われるまでもなくその可能性についても考え抜いたに違いなかった。 「…結局こうして案じてるしかないのか…」 顔を覆ってうな垂れる男を、為すすべなく綾子が見つめる。やがておもむろにグラスに酒を注ぎ足し始めた。 「飲みましょう、直江。今日はとことんつきあうからっ!」 堂々巡りの末についに酒に逃避した自分を、直江は後で深く後悔することになる。 |