夜半過ぎ、高耶が一人で戻ってきた。 部屋に充満する酒の匂いに、むずがゆそうな顔をしながら、ひらりと直江の膝に飛び乗る。 「ナァァオ」 ソファの背もたれに投げ出された上体をよじ登るようにして肩に辿りついた。 それでもぴくりともしない男の顔をもの問いたげに覗きこんで、ぺろりと頬を舐める。 一瞬だけ、瞼が開きかけた。 もう無意識の仕草なのだろう、腕の中に抱え込みながら、そのやわらかな毛並みを撫でる。限りない愛しさを込めて。 目を細めて高耶は小さく喉を鳴らした。 やがてぱたりとその手は止まり、死んだように再び眠りに落ちた直江の腕からもがきぬけ、彼はそれでも暫く主人の寝顔を見つめていた。 そして、来た時と同様、音もなく部屋を抜け出し、それきり戻ることはなかった。 愛猫を失って、一年が過ぎた。 悲嘆のどん底に陥りながら、それでも男は機械的に呼吸だけはしていた。 あらゆる手段は尽くした。再び帰ってくると希望を持ち続けるにしては、何の手がかりもない一年という月日はあまりにも長い。 それでも、直江はこの郊外の小さな家を引き払うことは出来なかった。 ある日、ひょっこり彼が顔を覗かせはしまいか?そんな幻想をみてしまうのだ。彼のために植えた香草の繁みの蔭から。 手入れもされずに放置された庭は、半ば野生化した香草があちこちに群生して、遠い国の荒れ野を思わせた。 そんなある日、警察から一本の電話があった。 猫の行方以外興味のない男は、その用件というのが一人の少年の身元確認だと聞いてけんもほろろに切ろうとした。十七、八の少年になど心当たりはまったくない。自分の署名記事を握りしめていたのは単なる偶然だろうと。 だが電話の向こうの相手は切々と聞きたくもない窮状を訴えてくる。事故か事件か、ひどく頭を打ったらしいその少年は名前以外苗字すら覚えておらず、身元が不明だというのである。 家出人や行方不明者のリストにも該当がないとあって、まるっきりのお手上げらしい。 こういう気まぐれを、ひとは天啓と呼ぶのかもしれない。 「たかや」という名に心惹かれて、直江は少年の収容されている病院に向かい、そして出会う。 まっすぐに自分を見つめるあの黒耀の瞳に。 外傷が癒えても記憶の戻らない高耶を、ためらうことなく直江は手許に引き取った。 そして、ふたり、家の前に立つ。 高耶はほんの少しむずがゆそうに顔をしかめ、ヘンな匂いがする、と呟いた。 そういう何気ない仕種が驚くほど猫めいてみえて、直江が微笑を深くする。 「私はもう慣れてしまって感じませんが……、そんなに匂いますか?この庭は?」 「あ……、ごめん。悪い意味じゃないんだ。こんな草の匂い嗅ぐの久し振りだったから。……なんか、懐かしい……」 「何か思いだせそう?」 「それはないけど……でも」 「焦らなくていいんですよ。……本当に必要なことだったら、必ず取り戻せるはずだから。さあ、中に入りましょう」 促す直江の顔を見上げ、高耶はけじめをつけるように改まった口調で言った。すこし恥ずかしげに。 「引受人になってくれてありがとう。できるだけ早く自立するようにするから」 そんな高耶に微笑み返すと、直江は無言で柔らかく肩口に手を添える。 もう二度と手放しませんよ……。そう心の裡で呟きながら。 キャットニップの叢には、在りし日の仔猫の幻影が見え隠れしていた。 |