書きかけの草稿がまとまったのは、もう、日付もとっくに変わった夜半過ぎ。 寝る前に風呂にだけは入ろうとリビングを通り掛かって、不意に人の気配に気づいた。 ガラス戸越しの薄明かりに見慣れたソファがおぼろげに浮かんでいる。そして、先ほど座っていたまさしくその場所に、毛布にくるまった高耶がいた。 「高耶さんっ?!どうしたんです」 思わず揺さぶり起していた。 夜明け前の一番冷え込むこの時間、火の気もないだだっ広いリビングに毛布一枚でいるなど、正気の沙汰ではない。 起されて覗き込む直江の険しい視線に気づいた高耶は、叱られた子供のように視線を伏せた。 「ごめん……」 「いったいどうしたんです?何か気に入らなかったの?」 「違うんだ。不満なんてない。ただ……」 「ただ?」 蚊のなくような声で高耶が言う。 「枕もカバーもシーツも。みんな新品で落ち着かなくて。病院じゃなんとも思わなかったのに。ここに来たら……ダメなんだ。よそよそしくて…ごめん―――っ!…直江?」 とまどう声にはかまわずに、直江は高耶を抱きしめた。 一瞬身を固くした高耶が、やがて緊張を解いて身体を預けてくる。 「謝るのは私の方です。慣れない環境の中にあなたを連れ出したくせに、半端に放り出すような真似をして。心細い思いをさせてすみませんでした」 黙ってかぶりを振りながらも、高耶は直江の腕を振り解こうとはしなかった。淋しかったのだと、こうして温もりがほしかったのだと全身で訴えてくる。 「私のベッドは充分に広いんです。一緒に眠りますか?」 考えるより先に口をついて出た申し出。 男を見上げた高耶の目は、こちらがたじろぐほどの真摯な色を湛えていた。 頷く高耶をひとまず寝室に連れて行く。 シャワーを浴びてくるからと言い含めた直江が再び戻ったときには、高耶はもう静かな寝息を立てていた。 眠れないまま慣れないベッドの中で何時間も煩悶していたのだろう。 書斎にこもった自分には気兼ねして声も掛けられず、それでも人の匂いが恋しくて先程のソファで夜明かしするつもりだったのだろうか。 あらためて張り詰めていたものが切れたように眠るこの少年を眺めやる。 抱きかかえるように枕の端を握りしめ、片手の拳をしゃぶりでもするように口元に当てている。 うずくまるように丸くなったその寝姿に、高耶の抱える寂しさを垣間見た気がした。 いったいどんな生活をしていたものか。 身元不明だったということは心配する家族も仲間もいなかったということなのだろうか。記憶を失うほどのいったい何があったというのか。 ―――かわいそうに。 こみあげてきた思いに突き動かされて、そっと艶やかな黒髪を撫でた。 「……ん」 身じろぎをして、擦り寄ってくる。人肌の温かさを探すように。目の見えない仔猫のように。 直江の傍らにぴたりとつくと、温もりに安心したかのように少しずつ、縮こまっていた手足が伸びていく。 それは奇妙なほどの既視感だった。 「大丈夫、ここにいるから。高耶さん……」 幾度も幾度も囁きかけるその名前の主は、目の前の少年なのか失った愛猫のことなのか、もう直江自身にも判然としなかった。 高耶の情緒不安定は、どうやら夜だけのことであるらしい。 翌朝目覚めてみれば隣に寝ていたはずの姿はなく、代わりに部屋の中にまで味噌汁のいい香りが漂ってきていた。 半開きのドアから高耶が顔だけ覗かせている。 もう何度目かのノックをしていたらしく、ようやく起き上がった直江に申し訳なさそうに声を掛ける。 「おはよ……。起すの悪いかなと思ったんだけど、朝ご飯、出来たから……」 「すぐ行きますっ!」 直江の慌てぶりがよほどおかしかったのか、くすりと笑って高耶が引っ込む。 朝の光の中でみる高耶は、屈託のない様子で、昨夜の儚げな姿がまるで夢かと思えてしまう。 食事をし、買い物をし、家の周囲を案内し、慌しくも平穏に二日目が過ぎていった。 だがそれも夕食後まで。 就寝の時刻が近づくにつれて、高耶は目に見えて落ち着かなくなった。 「……独りは怖い?」 直江の言葉に俯いて、それから縋るように目を上げる。 「悪いんだけど……」 「私だったらかまいませんよ。今夜も少し遅くなるかもしれないけど。必ず傍に行くから、安心して休んでください」 こどもが闇を怖がるように、高耶にとっても個室で過ごす夜というのが耐えがたいらしい。 それが失われた記憶となにか関係があるのか、なだめるように言い聞かせる。 「……うん。おやすみなさい」 まだ何か言いたそうにして、それでも高耶は素直に寝室へ姿を消した。 だから、思っても見なかった。高耶が胸に秘めていた決心を。 |