ゆめのかよいぢ
―3―




敷き詰められている玉砂利が泥跳ねを防いでくれて、本堂を巡る廻廊はたいして汚れてはいなかった。 それでも飛沫のかかった廊下を清めようと、バケツの水に雑巾を浸した時、見慣れた大きな手が割り込んできた。
「私もお手伝いしましょう」
視線を上げれば相変わらず穏やかな顔が在る。
「いいよ、ここはオレ一人でやれる。……直江、夕べはろくに寝てないんだろ?少し休んでいればいい」
気遣う高耶に、直江はなおも言った。
「高耶さん一人に働いてもらっていては、かえって落ち着かないんです。お願いですから手伝わせてください。 ふたりでさっさと片してしまって、後でゆっくり昼寝でもしますから」
にっこりと笑いかける端整な顔に高耶もつられて笑みを浮かべる。もっともこちらは苦笑いだ。 直江がこんな貌をするときは、てこでも自分の意見を曲げないことを、もう経験で知っているから。
「じゃ、オレこっち側からはじめるから。直江はあっちな」
返事の代わりに雑巾を手渡して、指示を出した。そして、さっさと自分で決めた位置につく。
少しでも自分が距離を稼いで直江の負担を軽くすればいいと、そう思ってがむしゃらに頑張ったのに、顔を突き合わせたのはほとんど正面、賽銭箱の階段の前で。
可笑しいような悔しいような、なんとも複雑な笑顔で視線を見交わす。
まったくこの男は拭き掃除ひとつにしてもそつがない。
仲良く二人並んで階段を拭き、賽銭箱を清め、雑巾の後始末をしてほっと一息つく間に、直江がジュースの缶を差し出してくれた。
「サンキュ」
こんなことが前にもあった……と、高耶は思う。
この本堂の廻廊はいわば自分と直江の秘密の場所で。ここに来さえすれば直江が見つけてくれたから。自分の事を本気で気に掛けてくれる優しいまなざしに逢えたから。だから自分はなんとかやってこられたのだと、心から思う。
ありがとう。直江。オレならもう大丈夫だから。

「……お暇をいただこうと思います」
突然、静かな声で直江は告げた。
まるで高耶の胸中を読み取ったかのような、訣別の言葉でもあった。
「うん……」
その決意を高耶も静かに受け入れる。
「……無理を言って、こちらには度々外出を許していただきましたが、これからはそれがもっともっと頻繁になる。これ以上のご迷惑は掛けられないと、両親とも相談してきました」
「あっちでお坊さんやるの?」
「……遊んでいるわけにはいきませんから。しばらくは便利やです。東京の兄の仕事を手伝う事になるかもしれません」
むしろその方が都合がいい。病院が近いので……、そう言って笑う直江の横顔は、どこか遠くを見つめるように儚げで、そのまま溶けてなくなってしまいそうだった。
「……そんなに悪いの?そのひと」
「もう手遅れなんだそうです……ああ、こんな話は中学生のあなたに聞かせるべきではありませんでしたね。すみません。でも、残された時間を少しでも有意義になるよう手を尽くしたいんです」
 躊躇った末に口にした問いは、かえって直江の心中と部外者である自分の立場とを知らしめる結果となって、高耶は唇を噛みしめる。
帰ってくるのか?とは、とうとう訊けなかった。
それは、直江がこれほど気遣う人の死後を意味する言葉だから。それを願ってはいけないのだと、自らを戒める。
「あなたは本当に大きくなりましたね」
項垂れてしまった高耶を、目を細めて愛しむように見つめながら直江が言った。
「ここではもちろん、学校でも優秀な成績だと。立派な生活態度だと、先日の面談で誉められたと奥様がおっしゃっていました…」
「………」
「…お父さんももう立ち直っていらっしゃるし、不在の時にはこうして住職様や奥様があなたたちの傍にいてくださる」
「…………」
「……だから、安心してあなたをこちらに預けて離れることが出来る」
「……………」
もう何を言われても返事など出来なかった。こみあげる嗚咽を押えるので精一杯だったのだ。
一言でも口にすれば、行くなと縋ってしまいそうだった。

突然抱きしめられた。
「あなたがとても大切でした……」
「………」
どくどく響く直江の鼓動は、なぜか心の慟哭のように聴こえた。

程なく、正式に寺を辞して直江は松本を去っていった。




高耶さん……。
耳に馴染んだ穏やかな声音で名を呼ばれた。
いつもの部屋、いつもの笑みで。
ああ、いなくなったのはウソだったんだ。おまえはここにいるんだな。よかった……。
そう素直に納得する自分がいて、高耶も直江に微笑みかける。
頭を撫でられ、抱き寄せられ、いつのまにか横たえられて身ひとつで同衾していることも、もう不思議とは思わなかった。 そよぐように蠢いていた掌が脚の間に降りてくる。柔らかく握りこまれ緩やかに扱かれて、待ち望んでいた刺激に思わず安堵の息が洩れた。
「…んっ……」
気持ちいい……。もっと。もっと触って。
そんな思いで擦り寄ったのを、直江は正確に察してくれたようだった。
力強さを増した動きに熱がどんどん高まっていく。身体中にうぶげが逆立つような電流が走り、やがてそれは大きなうねりになって高耶を飲み込んでいく。
「ぁあ……」
こらえきれずに洩らした自分の声の甘ったるさを引き鉄に、身体の奥で何かが弾けた。今まで経験したことのない快感が押し寄せてきて、一気に視界が白く染まる。 その瞬間、たぶん自分は息を詰めていたのだろう。思い出したように吐いた呼吸はすすり泣くように喉に絡んだ。
身体中から力が抜けてゆっくりと闇底に沈む感覚。
入れ代わるようにようやくまともな意識が浮かびあがった。

夢だったんだ…。
暗い天井を見上げながら、まず思う。
当たり前だよな。直江はここにはいない。もう、夢でしか逢えない……。
甘苦しい切なさを抱えながらせめて余韻に浸ろうと、もう一度目を瞑り寝返りを打つ。
そのとたん、どろりと流れた下半身の違和感に血の気が引いた。慌ててパジャマに手を潜り込ませる。
下着の中は放った自分の体液でねっとりと汚れていた。

「……」
呆然として、声もなかった。
知識として知ってはいた。だから。いつかくるべき生理現象をたった今迎えたことにはたいした感慨もないけれど。

でも。それが。どうして?疑問符だけが次々と湧き上がる。
なぜ、直江がこんな夢にでてくる?

答はたったひとつしかなかった。
好きだったんだ。彼のことが。夢精という形でその願望が表層にあらわれるほど。

「……どうしよう…」
不意に明確に形を為した思いに、頭も身体も麻痺したように動かない。それでも、何時までもそのままではいられなくて、のろのろと起き上がって始末をつける。

ぽたり。
萎えたものを拭ううちに、涙が零れた。自分が酷く惨めだった。

大事な人だったのに。とても大切で、だからこそ帰ってしまうことも納得ずくで受け入れたのに。
それなのに、同じ自分が、その大切な人を勝手に欲望の対象にして貶めている。彼の意思などまるで無視して。こんなのは、好きなんて言えない。愛とか恋とかそんな綺麗なモノじゃない……。
そこまで考えて、不意に高耶は何気なく浮んだ言葉に動転する。
恋とか愛とか。なんて。
直江は立派な大人の男で、自分も男で、そもそも恋愛なんて成り立たないはず。こんな感情は絶対異常だ。
それなのに「好き」なんて、自分は少しおかしいのじゃないだろうか。男が男を好きなんて。
こんな気持ち、押し付けられたら直江だって迷惑だ。きっと軽蔑される。それだけは、嫌だ。もしも直江に嫌われたりしたら……その先はもう考えたくもなかった。

元来高耶は晩熟な少年だった。体面だけを重んじる家庭がその性格に拍車を掛けた。異性に対して多少の興味はあってもそれを口にするのは憚られたし、実際、まだ女の子にさえ淡い感情以上のものを抱いたことはない。そんな未熟で潔癖な精神は、得てして極端から極端へと突っ走る。
夢精によって一気に自覚してしまった直江への思慕は、性が絡んだゆえに高耶に不当な罪悪感を植え付ける。
布団に潜りこみ、自己嫌悪に息を殺しながら、思う。

気づかれてはだめだ。絶対に。
これだけを思い詰め、高耶は胎児のようにまるくなり、固く目を瞑った。それ以上、考えることを放棄して。

ようやくまどろみの訪れた明け方、夢うつつで不如帰の声を聞く。
おどろな不安に彩られた夢の中で、その鳥の声はひどく切なく胸に響き、高耶は眠りながら涙を流していた。




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高耶さんてば高耶さんてば!!!
今さらながら可哀想なことしちゃったなと謝ってみたり(ーー;)






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