彼は、慈しんでくれたと思う。 高耶の一番辛い時期に、彼は守護天使のように寄り添って堕ちかけた境遇から引き上げてくれた。 まるで奇跡のようだった。優しく大人の態度で、それでいて、彼はいつも身を屈めて高耶と同じ目線にいてくれた。 そんな彼の気遣いに自分は気づかないまま、ただ甘えていたけれど。 少しは成長した今ならば解る。解る気がする。 直江にとっての自分は、凍えてひもじくてみゃあみゃあ鳴いていた仔猫のようなものだったのだ。 一時保護して育てたものを、環境が整ったのを見定めてから本来の場所へ帰した。 もう自分の手が必要ないと判断して、静かに高耶のもとを離れたのだ。 直江が寺を去ってからも、父の許と、寺での寄宿と半々の生活は続いていた。 が、それも、高耶が高校に進学したのを機に取りやめてもらった。 孫を手放すようで寂しいと、先方はとても残念がってくれたけど、自分の時間をバイトに費やす以上、寺の手伝いもせずに居候を続けるのは高耶の矜持が許さなかった。 それでも縁が切れたわけではなく、相変わらず夫妻は何かと高耶たちのことを気遣ってくれるし、美弥は週に何度か出入りしてお茶やお花を習っている。 おそらくはとし子の配慮なのだろう。美弥を通じて、自然に直江や橘の家の様子も耳にはいる。 あの年の冬、佐々木が亡くなったこと。 そのまま実家に落ち着くかと思えた直江は、今では僧侶というよりは、不動産業を営む長兄の片腕として全国各地を飛び回っているらしいこと。 寺を継いだ次兄の義弘に女の子が生まれて、また賑やかになったこと。 向こうの人たちもしきりに高耶と逢いたがっていること。 「お兄ちゃんも遊びに行けばいいのに。みんなすごく待ってるよ。今度赤ちゃんの顔見に来てくださいって。ほんとだよ?」 わくわくとした表情で美弥が言うたびに、曖昧に高耶は微笑む。 あの夏の、腕白な子どもたちとのひとときを思い出して。 とても楽しかった。すごく大事な思い出だ。自分を無心に慕ってくれたあの子たちは今でもとてもいとおしいけれど。 でも、それだけが高耶の人生や生活のすべてではない。 そして、その思いはきっと直江にも当てはまるのだ。 彼にとっても高耶との時間がすべてではない。楽しい思い出として残ってくれてさえすればそれでいい。 そんな諦念が胸をよぎる。 「帰るか…」 枯草を払ってひとりごち、高耶は再び愛車に跨った。 昼に初音を耳にしたせいだろうか。その夜、高耶は再び不如帰の声を聞いた。 溢れる陽射しの中でも闇の中でもない。森閑とした木立の中、吸い込まれそうに深い緑陰に包まれて、 顔を仰のけ目を閉じて哀調を帯びた調べに聞き入る自分がいた。 「不如帰はオレたち………に似ていると思わないか?」 話す口調は落ち着いた青年のそれで、でも確かに自分なのだ。 見ればいつの時代とも知れない和装をしている。上から俯瞰しているらしい構図に、ではこれは夢なのだと、どこか納得しながら高耶はその己の声を聞く。 「他人の巣に卵を産みつけてそ知らぬふりで育てさせる。親も親なら、仔も仔だ。他の卵を落としてまで里親の愛情を独占し育ててもらった揚げ句に出奔する。 親の唆す声に惹かれて。後足で砂をかける真似をして…いずれきっと地獄に堕ちる…」 「それが我等の定めにございますれば」 紡ぐ言葉は独り言ではなかった。不意の応えに、初めて高耶は背後に控えるもうひとりの人物に気づく。 直江だった。 見知らぬ顔、見慣れぬ服装。それでも確かに直江なのだと解った。 背筋が痺れるような歓喜が突き抜ける。どんな状況でも彼がこうして傍にいてくれることが、嬉しかった。 それは夢の中に佇む自分だって同じだろうに、振り返って直江を見つめる貌は、かたい。 (もっと笑えばいいのに) そんなことを端で思う闖入者に気づいたのかどうか、ようやく夢の自分は表情を和らげた。 それは、見ていて切なくなるような儚げな微笑だった。 (あれ?) ふと、高耶の意識は首を傾げる。 それは、時折、直江のみせる表情にとてもよく似ていたから。 「………」 「……………」 もう会話は聴こえない。 周囲は相変わらず小暗く、その木下闇に溶けあうように、やがて夢は途切れてしまった。 目覚めた後も、生々しい感覚は残っていた。 夢というよりは記憶の断片。 そんなことはありえないと思いながら、拭い去ることの出来ないデジャヴ。 直江と自分が前世からの知りあいだったなど、自分に都合のいい話でしかないのに。そう希い、その想いが夢として形を為すほど自分は彼が恋しいのだろうか? ひとつの大きな目標が達成されてしまった今、また彼への思慕が溢れ出してしまうのだろうか? そんな訳にはいかない。ぶるぶると高耶は首を振る。 自分が彼に恋慕に似た思いを抱いていたのを彼は知らない。告げる気もない。 自分はもう小さな子どもではないのだから。 いつまでも彼の好意を勘違いしていてはいけないのだ。 不如帰のみせた夢。 思えは、それは高耶を取り巻く水面下での変化を告げる、予知夢だったのかもしれなかった。 |