夏宵悠遠
―2―



慈雨のように降りそそがれた想いに、嗚咽はなかなかとまらなかった。
こんなふうに祝ってもらえる。自分の存在を受け入れてもらえる。
今までだってそうだったのだ。おそらくは。雑じり気のない好意で差し伸ばされた手はきっと幾つもあったはず。
自分がそれを拒んだ。再びの裏切りを恐れて。
受け取られることなく朽ちはてた想いになんと詫びればいいのだろう?臆病さゆえに倣岸でいた自分を。そのために傷つけた人々を。

睫毛に滲む雫を唇で拭われて、その優しさにまた泣かされる。
その最たる存在が直江だから。
今生のこの身も、この男を受け入れなければ何も変わらなかった。直江という存在が、世界の温かさに気づかせてくれた。そして次々と新しい未来への扉を開け放ってくれる。

言いようのない思いがせりあげてきて、気がつけば声を上げて泣いていた。
一度切れた感情の堰はどうにもとどめようがなく、ひたすら傍らのぬくもりに顔を埋める。涙は布地に吸わせるにまかせ、今度は大きな掌が穏やかに背筋をさすり続けていた。


それでも溢れ出す涙に少しずつ収まりがついてきて、震えながらシャツを握りしめていた手 がようやく緩みだした頃、直江は静かに高耶を引き剥がして席を立った。
不安に思うまもなく背後からひんやりとしたものが目元にあてがわれた。
濡れたタオルで覆われて、視界を遮られたことにほっとする。同時に麻痺していた理性が戻ってきて、自分の曝した醜態に改めて赤面した。
「サンキュ…」
泣き腫らして赤くなっているはずの両眼を隠してくれるタオルの存在がありがたくて、そう素直に礼を言う。
ずれないように片手で押え、ソファに身体を深く預けて背もたれ部分でうなじを支える。
自然と仰のいた顔は、反対側から浅く腰をかけている直江から見下ろされる位置になる。見えなくても見つめられている気配は解って、なんとなく気まずかった。
こどもみたいにしがみついて泣き喚いたりして。情けないことこのうえない。思い返したらますます恥ずかしくなってしまった。視線を合わせるのが怖くて、永久にこのタオルは眼から外せない気がする。

沈黙を埋めるように、指先が降りてきた。額に張り付いた髪をかきあげながら、そのまま愛しむように撫でてくる。慈みに満ちた仕草に高耶の表情が和んでいく。が。
「あのまま泣いているあなたを寝室に攫ってしまってもよかったんですが……」
直江の洩らした呟きに心臓が跳ね上がった。
「そんな真似をしたら、きっと食事どころじゃなくなってしまいますから……」
苦笑交じりの独り言。それはすぐに明るさを装った。
「とりあえず、お茶にしましょう。ケーキの仕度をしてきます」
言外に暫く自分は席を外すからという含みを持たせて。
声には出さずにこくりと頷いた。すぐそばにあった身体がかすかな軋みと共にソファから離れていく。
ほうと、ため息が出た。
台詞の意味を考えながら、火照りで生温くなったタオルを裏返して再び目元に押し当てる。
泣きじゃくる自分をなだめるのは、本当はとても簡単だったはず。言葉通りに抱いてしまえばよかったのだから。激情に流されていた自分はたぶん嬉々としてその手にすがり、それに溺れてしまっていただろう。
でも直江はそうはしなかった。辛抱強く波の引くのを待ち、気持ちを切り替えていつもの自分に立ち戻るための猶予まで与えてくれた。
そういう男なのだ。
だとしたら、自分はなんとしても彼の気遣いに応えねばならなかった。


カシャカシャとリズミカルな音がする。
問うまでもなく、器用に泡だて器を扱っているそのボウルの中身はクリームだと知れる。それでも、きっかけが欲しくて、伸びをするようにして背後から直江の手許を覗き込む。
「高耶さん?」
子どもじみたその仕草に、直江が素っ頓狂な声を上げた。その反応に気を良くしてついでに指を突っ込み、中身をぺろりと舐めてみる。
「うん。うまいよ……かたさも丁度いいんじゃないか?」
まっすぐに見つめた。まだ赤みの残る眼で。もう、気にしない。隠さない。そう決めたから。
そんな気概を汲んでくれたのかどうか、柔らかく微笑んで直江が言った。
「ケーキはどうしましょう?」
「どうって?」
「一応バースデーケーキですから。このままテーブルに運んでろうそくをたてて吹き消してそれから切り分けましょうか?…それとも…」
慌てて高耶が手を振った。
「いいっ。そんなことしなくて。ここで切ってくれれば…」
「残念ですねえ。ああいう手順を踏むのはけっこう楽しいものなんですよ?」
「おまえが楽しいだけだろ。あいにくオレは楽しくないんだ…むずがゆくなる」
じゃれあうような会話の応酬。
そのあいだにも直江は準備万端、茶器やらカトラリーを盆に載せて運ぶ用意をしている。
「とにかくケーキカットはおまかせしますから」
そう言って、リビングへと消えてしまう。
ケーキとともに残された高耶は、悩んだあげく四分の一の扇形とかなり大きめに切ったそれを皿に載せ、直江の後に続いた。
出迎えてくれたのは香ばしく鼻先をくすぐる珈琲の匂い。
いつのまにか、カサブランカの花は別室へ移されていた。
お菓子の風味を愉しむにはいささかあの花はきつすぎるので…。そんなことを言いながら、直江はカップを手渡してくれた。
そこまで考えるか?普通?内心呆れながら珈琲を一口含み、生クリームをたっぷり添えたケ ―キにフォークをいれて口に運ぶ。
ほおばったとたんに顔に浮ぶのは、満面の笑み。
「うまいっ!」

直江がそこまでこだわった、手焼きのケーキの味はたしかに絶品だった。


  肩のこらない処がいいと、高耶がその日の晩餐を希望したのは行きつけの小料理屋。
馴染みのよしみで、今日が誕生日なのだと聞き知ると、亭主はお祝いにとお酒を一本差し入れてくれた。
炭酸を含み、ほのかにピンクがかった華やかな酒だった。
「へえ?」
背の高いグラスに注がれてキラキラ光る泡の様子に高耶が瞳を輝かせる。
聞けば、発泡性の純米酒だという。物珍しさも手伝ってたちまちグラスは空になる。
淡い薔薇色の酒は、味も香りもふうわりと甘く夢見ごこちの味がした。

「今日の私はまるでいいところがありませんね。あなたの喜ぶものはみんな他人に持っていかれてしまった…」
生温い風にあたりながら、愚痴めいて直江が呟く。
この男の泉のように湧き出る思いを、それを表す術を封じてしまったのは他ならぬ自分だか ら……高耶はそのことですこしだけ胸が痛んだ。
いつだって、欲しいのはおまえだけだから……。
「帰ろう。直江」
腕を伸ばして指を絡めた。肩口に甘えるように顔を擦り付けたのはほんの一瞬、踏み出した歩調に合わせてすぐに離れてしまったけれど。
高耶の意外な反応に直江は呆然と突っ立ったまま動けない。繋いだ手を促すように引っ張られて、慌てて共に歩き出す。

夏の宵はまだまだこれから。
どこかで、花火を打ち上げる音がしていた。


「シャンパンを買いそびれてしまいましたね…」
高耶のペースに巻き込まれてしまって、迂闊にも慌しく家路についてしまった直江が、部屋にたどり着いてから無念そうに唸った。
「乾杯ならさっきしてもらったぜ?それより…」
可笑しそうに、なだめるように高耶が笑う。
ふわりと頬に手を添えて唇を重ねる。
「おまえにしかできないこと、くれよ…」
伏目がちに囁かれる大胆な言葉に直江が眼を見開いた。

が、逡巡は一瞬。
能うかぎりの口づけでそれに応える。このひとを愛しいと思いその生誕を感謝するありったけの想いを込めて。

もつれ合うように寝室に向かった。
ドアを開けたとたんに噎せ返るような花の芳香。
しがみつくようにしていた高耶がぴくんと肩を揺らす。
「ああ……百合の花だけ、ここに移していたんでしたね。……気になるのなら、外に出しましょうか?」
伺うように覗き込む。見つめあうその顔には、互いに不可解な表情が漂っていた。
そんな懸念を振り払う勢いでかぶりを振って、高耶の腕が直江の首に絡みつく。

「愛してる…」
強い光を放つ黒耀の瞳を薄闇に隠し、抱きかかえた直江の耳朶に吐息のように囁いて、高耶はベッドに沈んでいった。

どこまでも従順に高耶は直江を求めてきた。
その奔放さに眩暈を感じながらも、直江は衝動に押し流されることなく緩やかに高耶を追い上げることに専念している。
いつもの彼らしからぬ、扇情的な媚態。
それが今日一日の自分に対する贖罪であることは、彼の性格を考えれば容易に想像がつく。
だからこそ、それに溺れることは出来なかった。

煽ることも貶めることもせず、ただ甘いだけの睦言を舌に転がし、焦らすことなく昂まりを愛撫する。高耶の陥る絶頂が心まで満ち足りたものであるようにと、それだけを念頭において。
目元を赤く潤ませながら、夢見るような表情で半開きの唇から吐息を洩らし、高耶が快楽の淵にのめりこんでいく。直江とともに。

愛しい身体を導くのに、必要以上に猛々しく抱く必要などどこにもないのだ。本当は。
いとおしい……その気持ちが通じ合うだけで、身体はこんなにも満たされるのだから。

撒き散らした青い匂いさえ打ち消すほど甘く薫る大気の中で、白い大輪の花が誇らしげに揺れていた。

誕生祝に贈られた花束の百合は、それからしばらくの間、次々と花を咲かせつづけ、綻びだす蕾のひとつひとつから、直江は丁重におしべの葯を取り除く作業を怠らなかった。
こうしないと、花粉が零れて花の白さを台無しにしてしまうから、と、そう言って。
自然のものに手を加えることに懐疑的だった高耶も、百合の花粉は触れたら最後洗っても落ちない厄介な染みになると聞かされては納得するしかない。

こうして整えられた百合は、ますますその繊細な美しさが際立って、まるで白と薄い翡翠色で作られた精巧な細工もののようだった。
大きく反り返った花びらからは日を追うごとに翡翠の色味が抜けていき、透けるような白へと艶麗さを増していく。咲き初めの清冽な薫香が、やがて爛熟し妖艶な媚香となって部屋に満ちるまで。萎れることを忘れた迷夢の底の花のように。




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昔(?)は正統派(???)だったよな。。。
と、ふとわが身を振り返ったり。。。(--:)





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