結局その日は、首尾よく目当てのものを手にした後、気の向くままに、冷やかし三昧の商店街縦断となった。 半開放式の透明なドーム屋根は、陽射しを遮らないこともあって、アーケード街にありがちな閉塞感がまったくない。 通りのあちこちに樹が植えられベンチがしつらえられ、小さな噴水まであって、そぞろ歩きの散歩には絶好だった。 正午もかなり回った時刻になってようやく軽い食事を済ませ、高耶だけが一足先に外に出る。 ぼんやりと泳がせていた視線が引き寄せられるように一点に留まったのは、その時だった。 「高耶さん?」 会計を済ませて出てきた直江が怪訝そうに声をかけた。 「あ……」 魅入られたように動けずにいた高耶が、はっと振り返る。 「おや、貴方にしては珍しいお店をのぞいていましたね。美弥さんにもおみやげですか?」 うろたえたように視線を逸らす高耶を尻目に、一緒になってウィンドーをのぞきこむ。 ディスプレイからすると、どうやら骨董品店であるらしい。入り口脇の出窓は、寛げる居間の様子を模していて、何点かの磨きこまれた家具が見える。 なかでも一番目立つ位置に配された小卓には、ベルベットの敷布の上に大ぶりのアンティークの装身具が散りばめられ、背の高いフロアスタンドからの灯りを受けて七色に煌めいていた。 「……晴家あたりが悦びそうな品揃えですね、ここ」 のほほんとした感想に強張っていた肩からすっと力が抜けた。綾子のはしゃぐ様子まで浮か んでしまって、思わず吹き出しそうになる。 だが、それも一瞬だった。 「……で、あなたが気に入ったのは、さしずめあの硝子のランプですか?いや、ただのランプじゃなくて天球儀ですね、これ」 苦もなく言い当てられて、息が詰る。 直江の指差したのは、アクセサリーを引き立てるように布地の背後に置かれた、ドーム型をした卓上のランプだった。 琥珀色のすりガラスの表面には精緻な筆致で星座の意匠が描かれている。 実用品というよりは、ロマンチックな雰囲気を楽しむインテリアだ。間違っても普段の高耶とは結びつかない品なのに、どうしてこの男は、こうも勘働きが鋭いのだろう。 沈黙は肯定。 やがて、不承不承といった感じで高耶が口を開く。 「……昔、似たようなのがうちにあったんだ。ちょっと懐かしかっただけ。さっ、行こうぜ」 そう言って背を向ける。こんな物言いでは直江に不審がられると判ってはいても、感情が泡立ってうまく言葉を紡げなかった。 これとよく似たものを自分は知っている。母の宝物だった。 消えてしまったのは、家を出た母がいっしょに持ち出したのか、あるいは激昂した父に処分されたのか……。 子供心に灯を入れるその瞬間が大好きだった。 光源が電球ではなくて蝋燭というのが、なにやら特別な儀式めいた気分にさせてくれた。 燈赤色の炎がガラスの柔らかい色を透かして、描かれた星座の絵に生命を吹き込む。やがて、暖められた空気が内部の羽根を動かして、星を結んだ線の連なりがゆっくりと巡り始める。 宇宙と化した天井を見つめながら、母の語る星の物語を子守唄に眠りに落ちたものだった。 幸福な夢のきれはし。 だが幸せなはずの思い出は、後に続く苦い現実と分かち難く結びついていて、とても懐かしがる気にはなれない。忘れ果てていたと思っていた当時の感情と記憶が一気に噴き出して爆発しそうだった。 一刻も早くこの場を逃げ出してしまいたかったのに、軽やかなベルの音に振り返れば、直江の長身が薄暗い店内へと消えるところだった。再び、涼しげな音が響いて、何事もなかったかのように重たいドアが閉まる。 通りには呆然としたままの高耶が取り残された。 やがて、ウィンドー奥の緞帳の陰から一人の女性が現れて、慎重に天球儀を取り上げた。ガラス越しの高耶の視線に気づいたのか、にっこりと微笑みかける。つられて会釈を返しながらも、頭の中はすっかりパニックになっている。 冗談ではない。ちらっと目に入ったプライスカードには結構な金額が書き込まれていたのだ。直江の思惑がどんなものにせよ、買って欲しいなどとは思っていない。持て余していた激情が、一気に収斂して直江への怒りにすりかわる。 憤然として、高耶も後を追った。 雑多なモノに溢れたうなぎの寝床のような空間を慎重に通り抜け、やっと奥まったカウンターに男を見つける。先程の女性が丁重に梱包している姿に、その場で声を荒げるのがためらわれて、まるで子どもがするように上着のすそを引っ張った。 そのまま、少し離れた場所まで引っ張っていって小声で食って掛かる。 「どういうつもりなんだよ!」 「はい?」 直江は人当たりのいいよそゆきの笑顔を浮かべていた。こういう表情の時の彼は他人の意見を聞くふりをしながら、結局自分の我を押し通すのが常なのだが、今の高耶にはそれに気づく余裕はない。 「買ってくれなんて、云ってねーぞ。あんな高価いもん、お前が買う必要なんてどこにあるんだ?でしゃばるのも大概に……」 睨みつけながら語気鋭く発した台詞は、いつか尻すぼみにしぼんでしまった。しおれたように瞳が伏せられ、布地をきつく握りしめたこぶしが小刻みに震える。 見上げる直江の表情には微塵の変化もない。それだけに、優しげなその微笑みは、向けられた言葉の刃を跳ね返して自分の愚かしさを映し出す鏡となる。 湧き上がった怒りは、執着の裏返し。今の自分は男の優しさに甘えて八つ当たりしている駄々っ子でしかない。その微笑の裏で、直江はこんなバカな自分をどう見ているのだろう。そう思うと、居たたまれなかった。 そんな高耶に、諭す口調で直江が言った。 「こういう品はね、なかなか出回るものじゃない。欲しいと思った時には、もう二度と手に入らないかもしれない。その時、後悔しないために、今は私の手元においておきます。……大事なものなんでしょう?」 最後の一言が胸をついて、高耶が顔を上げた。 その一瞬に見せた無防備な表情に、直江は自分の言葉が核心を突いていたことを知る。 「それに、ちょうどこんなインテリアが欲しいと思っていたんです。リビングに置いたら素敵だと思いませんか。星見酒も楽しめそうで」 白々しく付け加えて、直江はそのままカウンターへ引き返し、やがて大きな包みを抱えて戻ってきた。ありがとうございましたの斉唱と、カウベルの音に見送られて外へ出る。 「……持ってくれませんか?これ」 「なんで?お前の買い物なんだろ」 歩き回った分だけ、駐車場からはかなり離れてしまっていた。かさばる荷物に根を上げたふりで、それとなく押し付けようとする直江に、高耶は先程の意趣返しとばかりにそっぽを向く。 小憎らしいほどの理屈をこねられて少しだけ重苦しさは消えたものの、隙あらば、自分に渡そうという本心が見え隠れしているから油断がならない。 取り付く島がないような意固地ぶりに苦笑いしながら、直江はそれ以上何も言わず、黙々と歩を進める。 ようやく振り出しの駐車場にたどり着き車を動かす段になって、直江は、鍵を取り出すために両手を塞いでいる包みを傍らの高耶に渡した。 そのさりげなさにうっかり手を伸ばして受け取って、思わずはっとした高耶だった。 見れば、してやったりとばかりに笑う直江がいる。 そちらが建前で押し通す気なら、意地でも触るまいと心に決めていたのに、みすみす直江のペースにはまった自分が悔しい。 「ぜってー、礼なんか云わねーからな!」 地団太を踏む勢いで喚く高耶に、嫌味なくらい余裕を持った直江が応じた。 「あなたに言ってもらおうとは思いませんよ。私が自分のために買ったんですから。でも気が 変わったらいつでもおっしゃい。イロをつけてくれたら譲ってあげてもいいですよ」 「何なんだよ!そのイロってのは。金持ちのくせに汚ねーぞ」 「そうですね、お金じゃつまらないから……体で払っていただきましょうか」 さらりと口にした直江の言葉の意味を、高耶は一瞬解しかねたようだった。 台詞を反芻するように口元が動いて、突然、眼が見開かれる。真っ赤になるのと、ずずっと後ずさるのは同時だった。 全身をけばだてて、口をぱくつかせている高耶の反応を充分に楽しんでから、直江はおもむろに言葉を続けた。 「……あなたの味が忘れられそうにありません。時々ご飯つくりに来てくださいね」 高耶が深く息を吐く。 「いったい、何考えたんですか?高耶さん」 意地悪く問うと、今度はきつい視線で睨みつけてくる。 「おまえ、いま、オレで遊んだろっ!」 「はて?何のことやら……」 とぼけながらも、ドアを開けて促すと、渋々ながら乗り込んできた。手には例の包みを大事そうに抱えたままだ。後部座席に置くように勧めたのだが、高耶はかぶりを振った。 「壊れたらまずいんだろ?オレには関係ないけど。お前、急ブレーキ踏まないともかぎんねーし」 憎まれ口をたたきながらも、その指先は愛しむように包みの表面を撫でている。言葉と裏腹の、そんなしぐさを眼の端に捕えながら、直江も軽口で応じた。 「信用ないですねぇ」 「セフィーロ廃車にする奴のどこを信用しろってんだ?」 「おや、あなたがそれを言うんですか?」 売り言葉に買い言葉の罪のない諍いは、とうとうマンションに着くまで続き、この日から、殺風景だったリビングには新しいインテリアが増え、高耶の訪問も次第に頻繁になっていった。 ふらりとやってきては泊まる理由を高耶は言わない。 直江もまた、何故とは訊かない。 当たり前の顔をして食事をつくり、他愛のない会話をして眠り、そして帰って行く。 滞在中、ほとんどの時間を過ごすリビングには、あの天球儀があり、時々、思いつめた表情でそれを見つめる高耶がいる。 それでいいと直江は思う。冷静に向き合う時間が多いだけ、気持ちの整理はつきやすい。そしていつか吐き出して、初めて心がラクになる。今はただ、穏やかな日常を重ねるだけ。 心の奥で凍り付いている記憶を、紗のベールを重ねるようにして和らげることができるなら。 守ることの叶わなかった高耶の過去を、せめて思い出すたび疼くことのないように包み込んでやりたかった。 |