わたげ色の日々
―3―




食事を作るのが高耶の受け持ちなら、夕食後の飲み物の用意をするのはもっぱら直江の役目だった。
後片付けを終え、シャワーも済ませてさっぱりした高耶は、直江に着替えを借りてすっかり寛いだ格好をしている。 お湯で温められて匂うような素肌から目を引き剥がすようにして、直江はグラスを差し出した。そして、慎重に話を切り出す。
「そうそう、先日、姉が遊びにきたんです」
「あの、すっげー世話焼きの女傑だっていう、お前の姉さん?」
鸚鵡返しに問い返しながら、高耶はくすぐったそうな顔をした。
もともと、自分の生活に無頓着なこの男の台所がなぜあそこまで充実しているかというと、すべては姉の冴子の差配なのだということを、ついこのあいだ、訊き知ったばかりだ。
はじめはその過保護ぶりに呆れ、その報われなかった労力を思いやるにつれ、彼女には妙な親近感を持つにいたっている。そんな感情が伝わるのか、直江も苦笑まじりで話を続ける。
「ほとんど抜き打ち査察ですけどね。……で、今回はあの天球儀に目を付けられました。私には宝の持ち腐れだから、譲ってくれと」
「ふうん?」
とくん……と心臓が高鳴った。
それを気取られまいと、努めて無関心を装いながら続きを促す。
「もちろん断りましたけどね、大事な預かり物だといって。……そうしたら、今度はまた妙な具合に想像されましてね、意中の恋人がいるのなら、さっさと家に連れてきて家族に紹介しろとせっつかれました」
ほっとしたのもつかの間で、とんでもない話のオチに、目を剥いた。
「なんで、そうなるんだよ」
「ご飯つくってくださるでしょう?どうやら使う人の個性が出るみたいなんです。姉としてはカマを掛けてみたんでしょう。…ご心配なく。きちんと説明して誤解は解いておきましたから」
「やっぱりお前の姉さんだな。……同じ血を感じる……」
力なく呟いて、高耶は手にしたままだったグラスの中身を一息に呷った。それを見た直江が眉を顰める。
「一気飲みは感心できませんね」
「誰がさせているんだよ?いいからお代わり!」
拗ねたような高飛車な態度をとるのは、照れているときの高耶の癖だ。
直江は黙って突きつけられたグラスを受け取った。きっかけになればと考え抜いた末の話題だが、普段と変わらぬ様子にこっそりと息をついた。
渡された二杯目を、今度は高耶はゆっくりと舐めている。
一気に体内にいれてしまったアルコールは思いのほか回りが速く、頭の奥がふわふわした。酔いの具合を確かめようと頭をぐるりと回した先に、話に出た例の天球儀が飛び込んでくる。
気が付けば、何も考えずに男の名を呼んでいた。
「なあ、直江……」
「はい?」
「あれ……、点けてみていいかな?」
初めて聞いた素直な願いに、降ってきたのは柔らかな笑み。すぐに男は支度にかかる。
真新しい麻の芯にマッチで火をつけ、慎重にガラスの笠を被せた。
顔を寄せ合って、息詰まるような真剣さで見守っていた視線は、揺らめく炎が安定するにつ れて、次第に上へと向けられる。
心地好い酩酊のうちに眺める天井には、静かにラインストーンの星々が廻っていた。
拍子抜けするほど、この間のような嫌悪感はやってこなかった。
ガラスの箱に入れて、遠巻きに眺めるように痛みだけが切り離されている。 それは、きっと、傍らのこの男のせいだと高耶は思う。一度は喪失した、綿毛に包まれるような温もりがここにあるのがまるで奇跡のようだ。
その暖かさに助けられて、かじかんだ手足を伸ばすようにそろそろと意識を星空に伸ばした。
背に当てていたクッションはいつのまにか片手に抱えられて枕になっている。仰向けに寝そべった楽な姿勢で、高耶は廻る星から星座をたどる。
小さな頃の思い出は、もう言葉にはならなかった。
いつか記憶は、凍えたままの冬の夜空に飛んでいる。
「オリオンに大いぬにプロキオンは……なんだったかな……」
一人語りの呟きは、もとより返事を期待してはいない。直江は、高耶の語るままに任せている。
「昔さ……家んなか滅茶苦茶で外で時間つぶしてた頃、見上げる空にやたら明るい星があってさ……。なんだか妙に目立つんだ。 すぐ隣にオリオンがあったせいかな、そいつだけはぐれたみたいにぽつんと輝いていて、ずっと気になっていた」
「……シリウスですね……」
「うん」
ためらいがちの相槌に、高耶は星を見つめたまま、小さく頷いて、少しだけ笑う。照れくさそうなのは、当時の自分と星を重ねていたせいだと判る、そんな笑みで。
どれほどの荒んだ思いを抱えて、空を見上げていたのだろう……。
高耶のみせた透明な笑顔が、胸に痛い。いまさらのように、やりきれなさが募る。
「……ずいぶん後で、その星の名前、知った。はぐれていたと思い込んでたのはオレだけで、ちゃんと星座の一部だったのな。それ知って笑っちまった……。 いきがってたガキのオレがバカみてーで、勝手に思い込み押し付けて、星にとっちゃはた迷惑なはなしだよな」
自嘲気味な物言いを淡々と口にする。もう、黙っていられなかった。
「もともと星座なんて人が勝手につくったものですから。目印にしやすいよう、便宜的に形と名前をあてがったに過ぎない。 ……だから、大昔のギリシア人にあなたが縛られることはない。見た通り、感じたまま……それでいいじゃないですか」
とろりと潤んだ瞳が直江を見た。
絶対的な肯定。あの時、知らずに求めていたもの。
(おまえはそうやって、いつもオレの一番欲しいものをくれるんだな……)
鼻の奥がつんとする。
これ以上何か言われたら、小さな子供に還って声をあげて泣き出してしまいそうだった。
それだけは避けたくて、先手を取ろうと言葉尻を捕える。
「…………おまえ、世界中の天文学者を敵にまわす気か」
「あなたがお望みなら」
ばふっ!……と気の抜けた音がして、クッションが飛んできた。そしてなにやら、床にぶつかる鈍い音が。
「あーっ!もうやってらんねぇ!よく口が腐んねーな」
腹筋で上体を支えたのもつかの間、枕を無くした高耶の後頭部は、すでに床材とキスしている。
仰のいたまま、けらけら笑う目じりには、光の珠が盛り上がっていた。
「口説く相手を間違えてんぞ。……見ろ。笑いすぎて涙が出たじゃねーか。もう、寝る!おやすみ!」
拳で乱暴に目元を拭いながら、決して視線は合わせない。
このまま、今夜は息を殺して布団の中で泣くのだろうと思った。後ろから抱きしめたい衝動を必死で抑えて、さりげない挨拶を返す。
「おやすみなさい」

浄化のための涙を邪魔しないように、直江は、一人、リビングに残る。
いつか、本物のシリウスをあの人と見に行こう。
そう、考えながら。




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赤んぼだったチビを抱いて屋上駐車場から眺めた遠くの雲がふわふわしててとても暖かそうだったので
そのとき書きかけだったこの話のタイトルにしました。 が。
わたあめを薄く延ばしたようないかにもあまくて優しいそれは、
実は冷え込む真冬特有の雲なのだと後々気がついたり。。。(ダメじゃん)
で。虎目の委託にはもう一種頼めたので、引き続きもうひとつ似たような話を書いています





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