丸一昼夜降り続いた雨がようやく上がったかと思うと、今度は風が吹き始めた。 冷たい季節風は、それまでの雨に湿ったまろやかな大気を追い払って、突き刺すような寒気に取って代わる。 上空ではものすごい勢いで雲が流れ、気が付けば中天には月が見え隠れしていた。 冬の足音を予感させる、そんな夜になった。 黙々と車を走らせながら、直江は、フロント上方に浮ぶ月をちらりと眺めた。 千切れ飛ぶ雲に、濃く薄く透けて見える白々とした姿がやけに寒々しい。一定温度に設定されたエアコンは、 いつのまにか、せっせと温風を車内に送り込んでくる。 暖かく快適であればあるだけ、曇りはじめたガラスが外の冷え込みを連想させて、気が滅入った。 こんなことなら、固辞したりせずにもう一泊するのだったと、早くも悔やみ始めた直江だった。 予定外に早く済んだ仕事のせいで一日あいた休日をのんびり過ごそうと、 出張先から闇雲に戻ってはみたものの、冷え切った部屋の空気を想像しただけでそんな気持ちも萎えてしまう。 無性に人肌が恋しかった。 そんな時に脳裡に浮ぶ顔は決まっている。ありえない幻影に一人苦笑しながら、明日は逢いに行こうかと考えた。 今日のところはさっさと戻って、一杯引っ掛けて寝るだけだ。そんな思いでそそくさと部屋にたどり着いた。 まずは蛇口を全開にしてバスタブにお湯を張る。リビングに灯りを点けて、寄せられたままの窓のカーテンに気づいた。 閉めるついでに雲の様子を見ようと、視線を外に転じたとたん、直江は信じられないものをみたように凍りついた。 いつのまにかきれいに晴れ渡った空に晧々として月が輝いている。その思いがけないほどの光が、歩道に佇む人影を照らし出していた。瞬間、直江は脱兎のごとく走り出していた。 「高耶さん!」 幻ではなかった。消えてしまわないようにその手首を掴む。 「よお」 眩しいものでも見るように高耶が言った。悪戯を見つかったような、どこか困った顔をしている。 「一体どうしたんです?」 「……ちょっと、顔見たくなって……。出張だって聞いてたけど、灯り点いたろ?びっくりした。早かったのな」 言いながら、傍らのGSXに視線を移す。 「別に用事があるわけじゃないんだ。じゃ、オレ帰るから……」 そのまま戻ろうとする高耶に直江が血相を変える。 「何言ってるんです。こんな冷え切ってかじかんだ手で、バイクになんか乗れるわけないでしょう。あなた、死にたいんですか?」 軽くたしなめただけのつもりの台詞に、思いがけなく高耶が反応した。 「大きなお世話だ!離せよ!人間なんて、どうせいつかは死んじまうんだろ?」 語気鋭く言い放って振りほどこうとする仕草に何か尋常ではないものを感じて、握りしめる手に力がこもった。 「とにかくいらっしゃい。話は中で伺います」 そう言って、強引に引き寄せる。抗おうとしていた高耶も冷えたからだでは踏ん張りがきかないのだろう、そのまま引きずられるように直江に従った。 エントランスを通り抜け、エレベーターに乗っている間も、二人は無言だった。 高耶は頑なに視線を合わせようとはしない。何か遭ったのだろうとは思ったが、それを気遣うより先に、自棄になった高耶の行動が無性に腹立たしかった。 よりにもよってこんな冷え込んだ夜にバイクで往復するなど正気の沙汰ではない。たまたま戻っていたからいいようなものの、あのまま予定通りのスケジュールでいたら……、いや、そもそも部屋を訪ねる気はあったのだろうか? そう考えて、ぞっとした。もしも、あの時外を見なければ、自分は、高耶がすぐ傍にいたことさえ気づかなかったのだ。そうなれば、高耶は何も告げないまま、本当に帰ってしまっていただろう。 いまは問い詰めるべきではないと思いながら、改めて、やり場のない怒りが渦巻いた。 そのままの勢いで、部屋に連れ込み、突き飛ばすようにバスルームへと押し込めた。 「まずはよく温まりなさい。今、着替えを出しますから」 返事も待たずに後ろ手にドアを閉め、体重を預けて出入り口を塞いでしまう。 全身を耳のようにして中の様子を窺っていると、やがて微かな水音がした。 素直に従ったらしい物音に息を吐く。 そろそろとドアの前から離れて、バスタオルと着替えとを脱衣所に置き、キッチンへと急いだ。 あの様子ではろくに物も食べていないだろう。何か用意したかったが、あいにく食料品は使い切ってしまっている。 外に買いに出掛けるのもためらわれて、切羽詰った思いでいると、戸棚の隅にカラフルな赤い包装が目に留まった。 口当たりの軽い、ビスケットの包みだった。姉の冴子が置いていったものだ。 ──子供だましみたいだけどおいしいのよ。腐るものじゃないから置いておくわね── ──これをですか?── おやつのイメージが強すぎて露骨な表情が顔に出てしまったらしく、逆にたしなめられてしまった。 ──そりゃああなたは食べないでしょうけど。そうバカにするものじゃないわ。マナーハウスなんかではね、ちゃんと客用寝室に常備してあるんだから。 あなただって夜中に急なお客様がないとも限らないでしょ?いいおとななんだから── そう言って、悪戯っぽく笑っていた。 まるで見透かされていたような今の状況に苦笑いしながらも、この時ばかりは姉の心遣いに感謝した。 小鍋に茶葉を放り込み、砂糖とエバミルクを溶かした甘めのチャイをつくる。マグカップになみなみと注ぎ、ビスケットを添えて、テーブルに用意した。 風呂から上がった高耶は、頬に血の色は戻っているが、相変わらず生気のない虚ろな表情をしていた。手渡されたカップを従順に受け取るものの、心はここにあらずといった風情でいる。 機械的に一口すすり、ビスケットをかじった。そして、不意に焦点があったように、まじまじと手の中の菓子を見つめる。 「……うまい……」 どれだけ空腹だったのか今気づいたように、今度は貪るように食べ始め、たちまち皿を空にしてしまった。すかさずお代わりを差し出す。 ようやく人心地がついたのか、照れたような笑みが口元に浮ぶ。が、突然はっとしたように腰を浮かせた。 「いけねっ、バイク停めっぱなしだ」 「そんな格好で外に出たら今度こそ風邪を引きますよ。キーは?私が行きます」 有無を言わせぬ口調の直江だったが、差しっぱなしだという高耶の言葉に慌てて部屋を飛び出した。 高耶を一人にする不安はあったが、バイクの方も放置しておくわけにはいかない。無事に高耶の愛車を敷地内の駐輪場に収め、 急いで部屋に戻ってみると、高耶はぼんやりとからのマグカップをもてあそんでいた。もう帰るとは言い張らないだろうと、腰を落ち着けてしまった様子に安堵の息を吐く。 「お代わりもってきましょうか。今度はブランデーも入れて」 そう言って今度は酒を混ぜた紅茶を用意した。 「はい、どうぞ。薄めにしたから、よく眠れますよ」 「サンキュ」 小さく呟いて受け取ったカップを掌で包み込む。そうやって、しばらく立ち上る芳醇な香りの湯気を見つめていた。 「……ごめん」 俯いたまま高耶が言った。 「おまえが居ないのは判ってたから、ほんとに帰るつもりだったんだ。でも結局、迷惑かけちまった」 「私は嬉しいですけどね、あなたに逢えて。でも、一体どうして……?」 気持ちがほぐれたのを察して、詰問調にならないよう、柔らかく言葉を紡ぐ。 「……昔の知り合いが死んだんだ。殺してやりたいほど憎くて、でも、どうしようもないぐらい力の差があった。 絶対死なないような奴だったのに……。……事故であっけなく。そしたら、急におまえの顔が見たくなって……。 留守でもいい、ここの窓を見上げるだけでも気が済むかと思って」 訥々と話す言葉の端々から、どれほどの衝撃を受けたのかが伝わってくる。 そして、改めて思い当たった。 高耶にとって、近しい者の死は恐らくこれが初めてなのだ。歳の近い者ならなおさら。 他人事でしかなかった死が現実に存在して、例外も目こぼしもなく存在そのものを根こそぎ奪っていくことに、否応なく気づかされた。 ここまで高耶を動揺させる存在が自分の知らない過去にいたことに胸の焼ける思いをしながら、同時に、一心に自分の下に駆けつけた高耶が愛しかった。 言葉にして吐き出したことで、高耶は幾分、穏やかな表情をみせている。 「……疲れたでしょう。布団を敷いておきましたから今日はもうおやすみなさい」 「……うん」 素直に頷いてリビングを出る。その背中がやけに頼りなげにみえた。目を離せずに後を追いかけていると、その視線に気づいたように振り返る。 すがりつきそうな眼をして何か言いたげに唇が開く。だが、それはとうとう言葉にならなかった。 「……おやすみ」 「おやすみなさい」 当り障りのない挨拶にすりかえて、平静を装った。互いに心の裡に嵐を抱えながら。 |