月光がレースのカーテンを透かして床に典雅なモザイク模様を描いていた。 天空に浮ぶ夜の女王は、薄闇のなか、彩りだけを殺してベッドでもつれあう二つの人影を照らしだしている。 白い裸体が色のない光を浴びて、ぬれたように艶を帯びる。
淡い翳りも、飛び散る汗の様子も、快楽に歪むなまめかしい表情も。 「愛してる……」 うわ言のように洩れる男の吐息が耳元に送り込まれる。 「あ……」 瘧のように震えながら、少年は切なげに呟いた。 「なお…え…」 ごめん、と。 潤んだ瞳が許しを請うように男を見上げ、閉じられる。 しなやかな腕が伸びて、男の背を抱きしめる。体液で湿った指が、やるやかに隆起した背中を這い上がり、うなじに達してためらうように彷徨った。 やがてほんの少し力をこめて男の顔を引き寄せる。
されるままになっている男に、唇を重ねる。
深く、深く、息さえも奪うように。 少年の怯えが火をつけたように、男の動作が荒々しくなった。 振り落とされまいと、それにすがりつく少年の熱もまた上がっていく。 絡み合う影が、スクリーンとなった壁の上で奇妙な舞踏を繰り広げる。 蠢く薄墨のそれは、夜の女王の僕のように巨大ではかなげで、どこか哀しかった。 獣じみた息遣いが満ちる。 部屋の密度をあげていく。 空気が粘度を増したかのように、呼吸がままならない。
まぎれもない喜悦を含んだ悲鳴があがって、唐突に壁面のモンスターは動くのを止めた。
そっと片手を頬に当てる。包み込むように掌を滑らせても、もう、ぴくりとも動かない。 直江は苦笑を浮かべながら、そのまま高耶の肩の下に腕を残して、傍らに寄り添った。 空いている手で汗ばんだ紙をかきあげ、顔を覆ってため息をつく。
その下の笑みはかき消すように消えてしまっていた。 求めれば拒まない。 やがて、ただ受け入れるだけだった高耶に少しずつ変化があらわれた。 唇に触れれば、自分から舌を絡めてくる。 おずおずとした愛撫を直江の身体のあちこちに滑らせ、胸の突起を舌で転がす。 直江の昂りを口に含むことさえした。 逆にうろたえた男がやめさせようとしても、むずかるように首を振って、脚の間に顔を埋め続けた。 柔らかくしっとりとした口腔内の感触と意志を持って絡みついてくる熱い舌の動きが、男を惑乱する。 瞳を閉じ、一心に祈るように律動する高耶の仕種が、皓く脳髄を灼いた。 奉仕されているという強烈な刺激の中で放ってしまった後も、その滴りを清めるように濃やかに舌が這って、残さず嚥下する。 喉がこくりと上下するのを直江は息を詰めて見つめ、ようやく顔を上げた高耶を思い切り抱きしめた。 愛しさに気が狂いそうだった。 だが、ここまで許しながら、高耶は男の望むたった一つの言葉を決して口にしようとはしなかった。 「愛してる……」 呪文のように囁く言葉を聴くたびに、ほんの少し、辛そうに眉を寄せる。 ――あなたは?あなたはどうなの?俺に聴かせて……
そう、言外に含ませた意味が解ってしまうから。
そして応える代わりに男の名前を呼び続ける。
高耶が語らない言葉をどうしても言わせたくて、今夜も執拗に責めたてた。 贖罪のように身体を与えつづけて、ついには気を失ってしまった少年を抱きながら、男は苦い後悔を噛みしめる。 高耶のなかには、まだ溶けきれない氷片が残っている。 あの夜、酒の力まで借りて無理やりこじあけた心の奥には、いまだ、直江の踏み込めない何かがあるのだ。 高耶はそれを知っている。 だからこそ、必要以上に身体を開いて男を受け入れようとする。差し出せない最後の部分を持つことへの、償いのように。 ――離れたくない…… 無意識にでた高耶の本心。 あの日、煽られ続けていた精神があの言葉で一気に崩れた。 欲望のままに、抱こうとした。 最後の瞬間に高耶がそれを許したことで、自分も愛されているのだと思い込んでしまった。 だが、そうではないとしたら…? 疑惑がむくむくと頭をもたげる。
高耶が自分に求めたものは、肉親に向ける稚いやみくもな情愛だったのではないだろうか。 普通なら、幼児期に卒業してしまえる想いを、まだ引きずっているとしたら? 有り得ないことではない。 詳しくは語らないが、高耶の生い立ちはあらかた想像がつく。 寂しく育った孤独な心を、今、自分の存在で埋めようとしていただけなら……肉の繋がりなど惑うばかりだったろう。 それでも拒まないのは、それだけ執着が深いからだ。 失うことを怖れている。自分の身を差し出してでも繋ぎ止めようとしている。 望まない繋がりは、いつか精神まで壊してしまうかもしれないのに。 そこまで想われていることに眩暈がする。答えがないのを承知で呟かずにはいられない。 「あなたから離れて…何処へいけるというんです……?」 閉ざされた瞼にそっと触れる。 瞼から頬へ、それから耳朶へ。そよぐように唇でたどる。 眩暈はやがて別な感覚へ取って代わろうとしている。衝動を抑えきれない。 ほら。あなたの執着につけいるあさましい獣がここにいる。 もう、引き返せない。 愛してると応えを返さないのは、高耶の最後の砦であり、精一杯の矜持なのかもしれない。 そして、自分がこんなにも欲しているのは、その一言ですべて許されたいからだ。 自分の仕掛ける行為の何もかもを正当化してくれる免罪符として。 自分が語る愛の言葉はもうずいぶんと汚れてしまったから。 代わりにあなたに言ってほしい。 すべて許すと、何も隠さない心で……。 愛しいものを手に入れたはずの男は、以前よりももっと深い惑いの中にいる。
温かい体温がすぐそばにあることにまず安心する。 目線だけを動かすと、西に傾いた月が窓の桟に引っ掛かって見えた。 その淡い光に照らされて、端整な貌の男が眠っている。 柔らかな茶色の髪が額に落ちかかって黒々とした陰影をつくっているのを、高耶は不思議な気分で眺めていた。 この男の寝顔をこんなに間近に見るのは初めてのような気がする。
言葉以上に雄弁な瞳が閉ざされているだけで、彫刻のように彫りの深い顔立ちがますます際立ってみえる。
本当に作り物めいていて、息をしているのか不安になる。
規則正しい鼓動が聞える。
おずおずと指先を触れ合わせる。 「なおえ…」 声を出さずに呟くと、男を想う狂おしさに息がつまりそうになった。 ――愛している…… 耳が男の幻聴を捉える。 こんなにもひたむきに注いでくれているものを、高耶は直江に返しきれないでいる。 愛している、という感情が、そもそも高耶にはよく解らない。 だから、直江に抱くこの想いがいったい何なのか、いまだに結論を出せないでいる。自分があやふやなまま、迂闊な言葉では返せない。 美弥になら、愛しているとためらいなく言える。 自分が守り、慈しんできた、たったひとつの存在だから。 それが肉親の当たり前の情なのだとしても、その気持ちに揺らぎはない。 一方で、直江が自分を愛してくれていることもよく解っている。 この男は、自分が美弥にしたように、自分を守ってくれようとする。大きな翼に庇って無償の愛で包み込む。いつでも、そして何度でも。 それほどの価値が自分にあるとはどうしても信じられなかった。 失望するのが怖くて、その理由を景虎のせいにして、男を、そしてどんどんかたむいていく自分を諌めようとした。 直江がその拘りを破ってくれるまで。気が狂うほど自分を求めてくれるまで。 やっと、自分の価値を認められる気がした。 少なくとも、直江がこうして求めてくれるうちは、自分を信じてもいいのだと。 直江の想いを自分は利用している。そんな後ろめたさがある。 離れたくない。いつも傍にいてほしい。 その気持ちに偽りはない。 だけど、ここまで執着するのは、結局自分のエゴのためではないのか?自問する声は常にある。
直江が自分に抱いている感情ほど自分の思いはきれいじゃない。そんなものは愛なんて呼べない。 だから、言葉の代わりに名を呼んだ。おまえの存在が自分のすべてだから。嘘っぱちの愛の言葉よりもずっと重い精一杯の気持ちだから。 だから……。口にするのはおまえの名前だけだ。それだけは掛け値なしの真実だから……。 同じ夜に、同じ想いを抱え、寄り添って温もりを分けあいながら、ふたりは微妙にすれ違い漂い流れていこうとしていた。
語る口調も穏やかな態度も以前とまったく変わらない。ただ肌を合わせること以外は。 直江なりに考え抜いた上での行動だったが、それがかえって高耶の精神を荒ませていくことになった。 ぎこちないまま冬を終えて、季節は春を迎えようとしていた。
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