惑いの月 桜花終焉 ―2―


ドアノブをひねる微かな音がやけに大きく響いた。

室内で息詰まるような沈黙を保っていた男が腰を浮かせて振り返る。

入ってきたのは、まだわかい女性だった。 後ろ手に扉を閉め、男が何か言いかけるより先に口を開く。

「大丈夫。熱は下がったわ。キズの塞がり具合も順調だし、しばらく安静にしていればもう心配ないと思う…。ただ、このまま家に返すのは無理でしょうね。ここからは動かせない。長秀。フォローをお願い。
不審がられないように処理をしておかないと。四日で帰るはずの小旅行の予定だったそうだから」

視線を巡らせて、壁にもたれて腕を組んでいた青年を見る。
返事の代わりに、千秋は軽く肩をすくめてみせた。

綾子の報告で安堵していいはずなのに、相変わらず室内には微妙に重苦しい雰囲気が漂ったままだった。





四方をぐるりと山並みに囲まれた小さな地方都市に滞在して、もう五日目の夜になっていた。

戦国のあの時代に志半ばにして斃れた小国領主の怨霊の調伏。
さほど難しくはない『仕事』のはずが、いよいよ詰めという段階で、高耶が負傷する騒ぎになった。

制止する直江を振りきって、一人深追いするうちに、敵の伏兵の捨て身の反撃を喰らったのだ。
咄嗟に張った護身波は、襲いかかる念波と砕石の嵐は防いだものの、それを囮に放たれた真空の刃を躱しきることはできなかった。

ざっくりと腕を切り裂かれ、鮮血が噴きだした。
同時に弱まった護身波を打ち破り、石礫やガラス片が石を持ったように高耶めがけて降りそそぐ。

ひるんだのは一瞬で高耶もすぐさま反撃に移った。念波の襲ってくる方向から隠れていた敵の位置を見極めると、外縛し、印を結んで真言を唱える。

手負いの身体を無防備に曝しているにもかかわらず、格の違いは圧倒的で、不意打ちで優位に立ったはずの怨霊は、それ以上何もできずに調伏されていった。

だが、高耶の気力もそこまでだった。

直江等が駆けつけたときには、すでに意識を失って、自らの血溜まりに倒れていたのだ。

腕の傷は動脈を傷つけ、とっさに〈力〉で止血しなければ、命にかかわるほどの深さだった。

さらには失血で体力を奪われたところに、別の傷口から感染した細菌によって敗血症を併発しかけた。

小さな医院で処置を施し、後は医術の心得のある綾子が付き添って、この時点でまる二日が経過していた。



「不幸中の幸いっていったらおかしいけど、かまいたちの傷だから癒りが早いのよね。これが石くれかなんかで力任せに肉を抉られて持っていかれたんだったら、ちょっと私の手には負えなかったわ」

危機的な状況を脱したこともあって、綾子がほっとしたように付け加える。
そのまま応接セットに歩み寄って男とは反対側の椅子に深々と身を沈めた。疲労の色は隠しようがなく、はつらつとした美貌が幾分やつれてみえる。

気遣うような視線を綾子に向けていた男がぽつりと言った。

「具体的に何日ぐらいかかりそうだ?」

「まず三日。へたをすると一週間。あの子の体力次第だけど…それより直江、あんたのほうは大丈夫?家の仕事詰まっているんじゃないの?」

「仕方ないさ…。俺が残る。『仕事』は完了したんだ。これ以上全員がここに居る理由はない。おまえは休め」

「そうだな…元はといえばおまえらが播いた種だからな」

棘のある口調は壁際から聞えた。 千秋である。

先程から険のある眼で直江を挑発するように睨んでいたのだが、あくまで平静を装う男に業をにやしたらしい。

「何が言いたい?」

それを受けて立つように、直江もまたゆっくりと向きをかえて真正面から千秋を見据えた。

光の加減でレンズが反射し、目元の表情はよく解らない。
だが、わずかに上げた顎の角度が、雄弁に千秋の好戦的な想いを物語っていた。

たった一言で、自制が崩れたようにあっさりと挑発に乗った直江を、千秋は隠された眼鏡の奥からしばらく見つめていた。 一度視線を落とし、ブリッチをおさえながら深いため息をついて、もう一度顔をあげる。
そして抑えた声で語りはじめた。

「俺はな、おまえ等がどういう仲になろうと知ったこっちゃない。だから一切口を挟むつもりはなかった。
だけどな、最近の景虎は……あれは何だ?
俺たちにまでヨロイ着て突っ張っていた奴が急に素直になったと思ったら、今度は前以上に暴走をはじめる。やりにくくてしょうがねえ。
揚げ句にこのザマだ。大将のおもりはおまえの役目だろう?いったいどうなっているんだ。知らないとは言わせねえからな。直江」

口調は荒げていなくても、内心に込められた怒りがひしひしと伝わってくる。

詰られている男は一言も言い返さない。甘んじて受け入れている。
だが、その心が平静でないことは、握りしめた拳が細かく震えていることで知れた。

「まあ、暴走でもなんでも結果がついてくるうちは問題なかったさ。 もともと独断専行はあいつの専売みたいなもんだしな。
だが今回は違う。二流の雑魚相手に見え透いた罠に引っ掛かって危うく宿体をパァにしちまうとこだった。
仮にも冥界上杉軍の総大将の看板背負ってる男がだ。はっ!お笑いだぜ」

一拍おいて千秋が続ける。激した感情を無理に押さえつけたような、平板な声だった。

「やっぱりあの坊やのままじゃ無理なんじゃないか?調伏はできるが本来のあいつの力じゃない。
といって悠長に実戦で鍛えるってのも危なっかしくてみてらんねえ。
そこで提案だ。いっそ、荒療治を考えるってのはどうだ?」

含みを持たせた口調に綾子が不安そうな眼を千秋に向けた。そのまま交互に直江とを見比べる。

「何が言いたい?」

先程と同じ台詞を感情を押し殺した声で口にする直江に、千秋は最後の爆弾を落とした。

「おまえの後見人の力を行使うのさ。景虎をもう一度換生させる。
ひょっとしたらそのショックで戻るかもしれない。おまえにしかできないことだろ?」

「馬鹿を言うな!」

射殺しかねない勢いで、直江は千秋を睨めつけた。

「あのひとを殺せと言ってるのと同じなんだぞ。言ってる意味が解っているのか?」

激昂する直江に千秋が言い返す。

「どっちにしろこのままだったら遅かれ早かれそうなるさ。雑兵に殺られる汚名を闇戦国にばら撒くより、おまえの手で引導を渡したほうが情け深いと思うがね。
とにかく、今のままのあいつの下では働けない。無能な大将のしりぬぐいなんざ真っ平だ。
それとも何か?あの坊やに執着する理由でもあるのか?」

言葉に詰まる直江を、千秋が複雑な目で見た。やがて、長い息をつく。

「やっぱりな……。急にあいつがおかしくなったのは、おまえにも心当たりがあるわけだ」

今までの激したやり取りが嘘のような、柔らかな口調だった。

直江は無言のままで居る。

「何があったのか?なんて訊く気はねえよ。だがな、直江。さっきの台詞。俺は本気だからな。
あの坊やがそんなに大事なら、なんとかしてやれよ。
それが出来ないのなら、おまえ等との付き合いもこれまでだ。俺は抜けさせてもらう」

上半身のバネだけで、壁にもたれていた自堕落な姿勢から身を起こし、尻ポケットに手を突っ込んだまま、ドアに向って歩き出す。 ノブに手をかけ、振り仰ぐように頭を巡らせて顔だけを男に向ける。

「武士の情けだ。一週間、あいつの周りの人間には暗示を掛けといてやる。そのあいだにゆっくり考えることだな。じゃ、俺はこれで帰るぜ」

ひらひらと手を振りながら、千秋はそのまま部屋を出て行った。

ゆっくりと慣性で締まっていくドアを見つめたまま、直江は動かなかった。

反対側から長いため息が聞える。肘掛にもたれるようにうずくまって、顔を覆っていた綾子だった。

「おまえも何か言いたいのか。晴家」

「別に……」

言いかけて思い直したように顔をあげる。

「いえ、ないこともないわね。この際だから言っておくことにするわ。あたしはね、あの子のこと嫌いじゃない。景虎のことを抜きにしてもやっぱり放っとけないとこがあるものね。
……だから、毛を逆立てて尻尾膨らませてた人間不信の野良猫みたいなあの子が、どうやらあんただけには懐いたようだと知ったときは嬉しかった。
だけどね、直江。いったんそうやって受け入れてしまったら、あんたはそれをとことん貫き通すべきだった。
情けを掛けておいてもう一度突き放すことほど、残酷な仕打ちはないのよ。あの子みたいなタイプにはね。

……つまりは…そういうことだったんでしょう?」

「突き放したわけじゃない」

「あんたの言い分は関係ないわ。肝心なのは景虎がそう思い込んでしまったということなのよ」

「だったら、どうすればよかったんだ?あのまま、あのひとの本心を知らないで身体だけを求め続ければよかったのか?あのまま…抱き続けていつか精神の壊れるのを見ていろと?」

痛ましそうな表情で綾子は男を見る。

「言ったでしょ?それを決めるのはあんたじゃない。景虎なの。 あの子がそれを望むなら、あんたはそうしてやる以外ないんじゃなくて? 第一本心では望んでいないなんて、なんであんたに解るのよ?」

悄然と肘を突いて顔を掌に埋めてしまった男に、綾子はなおも言い募る。

「こういうことは本人以外解らないとか言わないでよね。
周りの人間のほうが当事者より見えることだってあるんだから。 あんた、どんな眼で景虎があんたのこと追っかけてたか知らないでしょ。見ているこっちが切なくて泣きたくなったわよ。
まったく…どう見ても相思相愛にしか見えないのに、どうしてここまで拗れるのかしら? あんたたちに必要なのはとにかく本音をぶつけ合うこと。……どんな思いをしたって、あの子を失うよりはマシなんだから。しっかり受け止めてやんなさいよ」

言いたいことを一気にまくしたてて、綾子はそのまま黙り込んだ。

直江は動かない。 肩を落として顔を覆ったまま身じろぎもしない。

自分の言葉はどこまでこの男に届いたのだろうか? 言いようのない不安が広がる。

普段なら小憎らしいほど的確な判断を下し行動するこの男が、高耶に関わるときにだけ、その冷静さを失うことを、綾子も千秋もとっくに気づいていた。
大事にしすぎて、肝心なものが触れ合っていないもどかしさが二人の間にある。
痴話げんかと放っておけるうちはよかったが、事態はどんどんこじれるばかりのようにみえた。
千秋が派手に仕掛けたのを見て、自分は火消しに回ったつもりなのだが、これでよかったのだろうか。

沈黙が痛い。

瞬きも忘れて男を凝視し続けた眼が辛くなってきた頃、不意に直江の指先が動いた。

組み合わされていた掌がほんの少し下にずれて両眼が露わになる。その瞳には強い光が湛えられていた。

「おまえに諭されるとは思わなかった」

いつもの直江だった。

その口調に苦笑の響きを感じ取って、泣きだしたいような安堵が押し寄せてくる。

「現役女子大生をなめないことね。恋する坊やの心理なんかお見通しなんだから。
というわけで、今夜はこの部屋で休ませてもらうわ。付き添いの交代よ。あんたはとっととあっちの部屋に行って景虎の寝顔でも見てきなさいよ」

軽く返して男を引きずるようにして立たせ、ルームキーを握らせて追い出しに掛かる。 極上の微笑を廊下に押し出した直江に投げかけると、綾子はそのままドアを閉めた。

胸の奥がふわりと暖かかった。







躊躇いがちにノックをした後も、まだ直江は迷っていた。

応えはない。

晴家のいう通り、眠ってしまっているのだろう。 それならば、様子だけでも見てみようとそっと身体を滑り込ませた。

空気が流れていた。

空調ではない本物の生きた風だ。訝しく思いながら、眼が薄闇に慣れるのを待つ。

真っ先に視線を飛ばしたベッドに人の寝ている気配はなかった。慌てて室内を見渡す。
部屋の片隅、窓の桟にもたれるようにして、高耶はいた。

彼自身が部屋の調度の一部にでもなったかのように、ぴくりとも動かない。
外から差し込むわずかな光が、まるで彫像に影を与えるように、それを際だたせている。
もたれかかっている窓の、ほんの数センチの隙間から、夜の大気が部屋に満ちているのだった。

「高耶さん?そんなところにいては身体に障ります。ちゃんと横になって…」

云いながら、捉えようとした二の腕の冷たさにぎくりとする。と同時に、触れたとたん、ぴくりと跳ねあがった高耶の反応に気をくじかれて、中途半端な位置で手が止まった。

そんな直江を見上げて、高耶が言った。

「寒気は収まった。大丈夫だ。風に当たりたかったんだけど…ここ、窓はあかないんだな……」

眺望が拓けるように広く取られている窓はすべてはめごろしのガラスで、一番端に細く矩られた通風のためのわずかに開閉する部分に高耶はいたのだった。

「それにしたって冷えすぎですよ。いったい何時からそうしていたんです?」

返事が返るまで、暫くの間があった。

「ねーさんが出て行ってすぐ」

絶句した。 あれから小一時間は経っている。これでは体が冷えてあたりまえだ。

直江の反応は予想していたのだろう。声がどんどん小さくなる。

「心配するだろ?寝てないと…。だからねーさんの居る間はおとなしく怪我人してたんだけど……」

目線を遠くに飛ばして夜景を眺めている。

言葉では伝えきれないとでもいうように、唇を半開きにしたまま、遠い何かをみつめている。
心はここにないように。

庇うように抱いている右腕は包帯で固定した上から三角巾で吊られている。糊のきいた布の白さが痛々しい。

突然、高耶が大きく身震いした。

抱きしめたいのをこらえて直江はベッドから毛布を剥ぎ取り、後ろから羽織らせた。
本当は自分の体温を分けてやりたかった。こんなに頼りなげな風情をみせられては。

「サンキュ…」

柔らかな風合いの毛並みに触れて初めて、冷え切っていた肌に気づいたらしい。

「あったかいな…」

一言呟くと、毛布に包まったまま、頭を壁に預ける。

そのまま動く様子のない高耶を見下ろして、直江もまた、その場に佇む。
やがてゆっくりと視線を高耶から外の夜景へと巡らした。

夜空よりも多くの煌きが眼下に瞬いている。
黒々と横たわる稜線が二つの星の海を区切っていた。

そういえば、高耶の見つめている山の上あたりが淡いピンクに染まっていたのを思い出す。

出逢ってもうすぐ一年になろうとしている。
初めて迎える桜の季節は慌しく過ぎ去ってしまっていた。街中はすでに葉桜になっている。

「桜…終わっちまったな。花見すんの楽しみにしてたのに…」

ぽつりと高耶が言った。

「……夢を見た。みんなで花見をしてるんだ。知らない顔なのに、夢の中で確かにオレは識っていた。
ねーさんがいて、千秋がいて…それからもうひとり、あれは誰だったんだろうな…」

「色部さんですよ」

呟く直江の声は高耶には届かない。

「オレの隣りにはいつもいつもおまえが居た。これって景虎の記憶なんだよな?解っているけど、なんか寂しかった……オレはまだ仰木高耶のままだから…出来損ないだから仲間に入れてもらえないみたいで」

「高耶さんっ!」

怒気を含んだ一喝が言葉を遮る。

怯えた子どものような眼で、高耶が直江を見る。 だが、睨めつける強い視線にもたじろぐことなく続けた。

「別に卑下してるわけじゃない。ただ…今回のことで思い知らされた。オレはまだ景虎じゃない。
仰木高耶のまま、気ばかり焦って判断を誤った。……時々、とんでもなくおまえ等が遠くなる……」

溶けてなくなりそうに語尾が震えた。

毛布の合わせ目から救いを求めるように伸びた指が、男の腕の手前で躊躇う。

やがて、諦めたように力を無くして落ちる手を、直江が強引に掴んだ。
驚いたように眼を瞠る高耶にかまわず、そのまま握りしめ口元に寄せる。

「あなたはあなたです。失敗したっていい。そのために我々がいるんです。そんな哀しいことを言わないで、もう少し寄りかかってはもらえませんか?」

「優しいんだな…」

視線を伏せて高耶が呟く。

「おや、今頃気がついたんですか?」

眉を上げて茶化すように言うと、高耶は黙ってかぶりを振った。

手を預けたままのその仕種は頼りなげな子どものようで、直江の言葉を否定したいのか肯定したのか判じかねた。
沈んだままの高耶の気を引き立てようと、直江は次の言葉を紡ぐ。

「そうですね。桜を観にいきましょうか。晴家や長秀に話すと面倒ですから…、私でよければお供しますよ」

意外そうに高耶が目を上げる。それを受けて直江が応える。

「あなたの見ていたあたり…桜が気になっていたんでしょう?少し標高があるからまだ花が残っているかもしれない。行ってみましょう」

「いいのか?」

おずおずと高耶が問う。
いつもなら、問答無用でベッドに押し込めるのに、と、その眼が言っていた。
勝手が違って戸惑っているのが解る。

穏やかな笑みを浮かべて、安心させるように直江が言った。

「それであなたの気が済むのなら……。外は冷えますから、しっかり着込んでください」






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セリフ長いよ…と思いつつ、初めて書いた千秋とねーさんでした。そしてオトメ入っている高耶さん、いつもの直江…(無言)
いつぞや日記にセンセがカキコくださった「持論」はやっぱり真理でした…(黙)
あら?どっかで読んだ気のする描写と心理ね?とお感じのあなた。正解です。実はコレが原点だったわけです…(苦笑)




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