助手席で高耶はずっと無言だった。直江もまた、あえて沈黙を破ろうとはしない。 そうやって窓の外に流れる光の筋を眺めている。
市街地を抜けて曲がりくねった坂道に入る。
時々視界を遮る森が切れて、遥か下に街の明かりが見えた。その華やかさに息を呑む。 「まるで光の海でしょう?」 思考を読み取ったように直江が話し掛ける。声もなくただ頷くだけの高耶に言った。 「ここはまるで光の海に浮ぶ小島です。開発が遅れていたのが幸いして手付かずのまま自然公園として残りました。頂上近くに小さな出城跡があって、そこが桜の名所になっています」 「詳しいんだな」 直江は応えない。 「ひょっとしてそこも…?」
数日前の出来事が生々しく思い出されて、無意識に包帯を巻いた腕を庇った。 「いえ、そこは戦に巻き込まれることはなかった…我々から見れば穏やかで清浄な地です。 だから、大丈夫。気になさることはありません。さあ、ここです」 緩やかなカーブの手前の路肩に停車させる。 「暗くてわからないでしょうが、谷ひとつ越えた向こうが城跡です。少し歩きますが平気ですか?」 「ああ」
萌える息吹きを宿した夜の大気はしっとりと濃厚で、ひんやりとした感触で肌にまとわりついてくる。 直江に促されて反対側に渡る。暗くて気がつかなかったが、そこには確かに谷に沿って下る細い道が続いていた。出入り口には車止めの柵とチェーンが設けてある。 「いったん下ってそれからまた上りになります。ああ。だいぶ足元が悪いですね。懐中電灯を持ってきましょうか?」 「いや、灯りなら…月がある」
山の端から半分ほど欠けた月が昇ってきたところだった。 直江の説明通り、暫く歩くと道はくの字に折れ曲がり、上り坂になった。寝こんでいたせいで身体が思うように動かない。ようやく登りつめたときには、高耶はうっすらと汗をかき荒く息を弾ませていた。 つまずかないように地面に向けていた目を上げると、一面に白く霞んだ風景が広がっていた。
満開の桜がそこにあった。 ふわりと風にのって香りが流れてきた。 「桜ってにおいがあるんだな…」 大きく息を吸いこんで、正直な感想をぽつりと洩らす。 くすりと直江が笑った。 「夜のせいですよ。視覚がきかない分、嗅覚が敏感になる……。それに、確かにここにはものすごい本数が植樹されていますからね」 「それなのに、人っ子ひとりいないんだな…」 「歩いてみて解ったでしょう?ここは花見を口実にただ騒ぎたいだけの輩にはいささか不便すぎる場所なんです」
ライトアップも、酔客の嬌声も、屋台の賑わいもなく、ただ花だけの世界。
声なき声が、ひとつひとつの花の意思が、漣のように広がって山全体を覆う結界となっている。 「凄いな…」 高耶が呟く。 「こんなに命があって、動いているのはオレとおまえだけだ…」
呆然と桜に魅せられていた高耶が、引き寄せられるようにその中の一本に近づいた。 うしろで見守っていた直江がたまりかねて声をかけようとしたとき、ふっと顔をあげる。 「何を考えて…こいつらは毎年毎年花を咲かせるんだろうな」 そう言って再び眼を閉じてしまう。
「春が巡るたびに花をつけて、たった一週間で散らせて。何十年も何百年も同じことの繰り返しだ。 「高耶さん」 泣き笑いのような顔を直江に向けて、高耶は訴える。 「オレが死んでも景虎は残るんだろ?この桜の樹みたいに。おまえにはそのほうがよかったんじゃないのか。使い捨ての身体なんかさっさと見限ればよかったのに」 「本気で言っているなら怒りますよ」 「結局オレは散って終りの花なんだ。記憶がない以上景虎にはなれない。四百年も生き続けたおまえたちとは違う。だったら……」 「馬鹿なことを」
「じゃあ、なぜオレに触れなくなった?もう用済みだからじゃないのか? 血を吐くように叫ぶ少年との距離を一気に詰めて、直江は腕の中に高耶を閉じ込めた。 「本気で言っているんですか?」 鬼気迫る目つきと荒々しい動作のなかで口調だけが優しく響く。そのアンバランスさから、男の中に滾る激情が伝わってきて、高耶が怯んだように目を上げた。 「身体の次は命までくれるんですか。すべて与えたと思わせて、ぬか喜びさせて、最後には根こそぎ奪い取ってしまう。そんな勝ち逃げは許さない。 …そこまでしてあなたが隠したがるものはいったいなんです?あなたより大事なものは俺にはないのに」
直江の激情が高耶にも乗り移ったようだった。眼に毅い光を湛えて睨み返す。
「知ってる。おまえがどれだけ想ってくれたか…だからよけい許せなかった。こんなに想われてもオレはまだ自分の方が大事なんだ。 呆然と直江は高耶の叫びを聞いていた。すれ違った思いに言葉も出ない。 怒りを宿していた瞳の色が、どんどん別な深いものへと変わっていく。
この病的なまでの自己否定と装甲のように纏ったプライドを見せつけられて、彼が酷く脆い少年だということに改めて気づく。 「あなたは…そんなふうに考えていたんですか。私が触れなくなったのはあなたを見限ったからだと…」 長い沈黙の後で、ようやく直江が口を開いた。
「私もね、高耶さん。ずっと不安だった。あなたは身体を許してくれたけど、心の中までは決して覗かせない…そんなもどかしさがいつも付きまとっていた。 高耶の眼が見開かれた。
「あなたは自分のことを醜いというけれど、そんなことはない。醜いのは私のほうだった。
「オレはそれだけは言えなかった。 深いため息がでた。 己に厳しくて潔癖な高耶でなかったら、或いは大事に思うあまり、気を回しすぎる自分でなかったらお互いここまではこじれなかったろうに。 綾子の言葉が思い出される。結局は第三者の目が一番正確だったわけだ。 突っ張っていた肘を折って身体ごと高耶の耳朶に耳を寄せた。 「解りました。もう、その言葉をあなたの口から聴こうとは思いません。でも、私が触れなくなったのは決してあなたを見限ったわけではないということは信じていただけますか?」 久し振りの吐息の感触に瞳が揺れた。
眼を逸らして、強情に首を振り続ける。だが、今度は直江も引かなかった。
「そんなに信じられないのなら、あなたを絡め取る鎖をつけてあげる。 放心したように、高耶の瞳から光が消えた。そのままずるずると崩れ落ちる。 直江もまた、その後を追うように屈みこみ、見開いたままの眼に微笑みかけると、そっと唇を近づけた。 目尻に、口の端に、鼻のあたまに、そしていつか閉じられた瞼の上に。 「いいのか?…本当に…」 それ以上の自虐の言葉を語らせないよう、唇を塞いでしまう。
何度も角度を変えて重なる誓いのキス。 そのたびに直江は愛しげに髪を撫でて、それに応えた。
もう解ってしまったから。
顔中にキスをする。愛しくてたまらない想いを口移しで伝えるように。 「駄目ですよ。こんなところでは…あなたの傷に障る…」 高耶の想いを読み取って男が囁く。 切なげに眉をひそめて見上げる眼に、いいようのない色が浮ぶ。
…かまわないから。 桜の花精が宿ったような凄絶な媚態。蠱惑を溶かし込んだその視線に、直江が息を呑んだ。 「こんなところであなたを抱いたら…何千万の花の嫉妬を買ってしまいそうだ…」
囁き返すそのそばから、はなびらがひとひら、高耶の口元に舞い落ちた。 「ほら、花もあなたにキスしたがってる…」 声もなく震えるだけの少年は、潤んだ瞳で訴える。 早くなんとかしてほしいと。 長いこと、視線は絡みあったままだった。
やがて、緩やかな仕種で直江のあたまが下へ動いていった。 そしてくぐもった声をうつつに聞いた。 「いや、それもいいかもしれない。見せつけてやりましょう。ただ見ていることしか出来ない花たちに。あなたは私のものだと…」 花吹雪を浴びながら、今、抱き合う影がひとつになる。
待ち望んでいた至福の瞬間がやってきて、皓く世界がはじけた。
あっけないほど簡単に果ててしまった高耶から、直江が静かに身を起こす。 「もう、戻りましょう。身体がこんなに熱い…」 抱き上げようとする直江を腕を突っ張って高耶が制した。 「いや、いい。自分で歩ける」 「でも…脚に力が入らないでしょう?」 実際その通りだったのだが、とうとう高耶は意地を通して、直江に支えられながら倍の時間をかけてきた道を戻った。 だがそこまでが限界で、車に乗り込むなり、ぐったりと眼を閉じてしまう。 呼吸か荒い。血の気の引いた顔の、頬と瞼だけが赤らんでいる。時々大きく身震いするのは熱の上がり始める兆候なのだろう。 「……晴家に大目玉を食うな」 高耶をコートで包んでやりながら、これから先の展開を想像してため息が漏れる。同時に温かな思いが溢れて頬が緩んだ。 笑いの名残を口元に残して、直江は、桜の結界から人間の世界、光の海の只中へと車を走らせる。
翌朝、盛大にまくしたてる綾子の文句を直江は神妙な顔で聞いていた。 危惧した通り、高耶はあれから熱を出して寝込んでしまっている。綾子の怒りも当然で弁解の余地はない。 「とにかくっ!こうなったらきっちり責任とってもらいますからね。主治医命令よ。一週間はこのまま静養させること。付き添いはあんただからね。もう部屋から出しちゃ駄目よ。松本へはあんたが送り届けること。もちろん病人の体調をみながらね」 一気に喋って、息を継ぐ。 次の舌鋒が襲ってくるかと身構えたその瞬間、そんな直江を見透かしたように綾子は悪戯っぽく瞳を輝かせておもむろに言葉を足した。 「それで?……うまくいったみたいね?」 あまりの態度の落差につんのめりかけるのをこらえ、何気ないふりを装って応えた。 「おまえには借りができた」 「ふうん?それだけ?」
まったく素直でないのは、この男も景虎もいい勝負だと綾子は思う。 「じゃあ、邪魔者はこれで消えるわ。後はよろしくね」 華やかなウィンクを飛ばして、綾子は直江の視線を背中に受けながら、ドアを開け、廊下へとでた。 と、不意に閉まりかけた扉からぴょこんと顔半分だけ覗かせて、言い忘れたとばかりにとどめの台詞を吐く。 「あっそうだ!あの子が病人だってこと忘れちゃ駄目よ。励むのも程々にしなさいね」 微苦笑を浮かべていた直江の顔が一瞬強張った。 「うふふ……さては図星だったわね」
楽しそうな笑い声を残して今度こそドアが閉まる。
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