聯珠―イントロダクション―


二日間に渡った『仕事』を終えた後、食事でもと先に声を掛けたのは直江だった。
気の乗らなそうな高耶を、結局は『美味しい魚料理』で釣ってしまう。
素直に誘いに応じないのはいつものことだから、直江はすっかり高耶の扱いに手馴れてしまっている。
目当ての店に半ば強引に案内すると、さっさとオーダーを済ませてしまった。
料理が並べられてしまえば、高耶の不機嫌はそう長くは続かない。
次々と皿をカラにする少年の旺盛な食欲は、見ていてるだけでしあわせな気分になれる。

海辺りに建つそのレストランは、評判どおり、眺望と新鮮な魚介類が素晴らしかった。
食べ終える頃には、始めにゴネてみせたことなど忘れたように満ち足りた顔になる高耶だが、直江が会計に向うその瞬間だけ、いたたまれないような表情をつくるのが常だった。

一度、高耶が直江に訊いたことがある。
 なぜ、自分にこんなによくしてくれるのか?と。

――は?

怪訝そうに眼を見開く直江に、言いにくそうに続ける。

――だっていつも奢ってくれたり、あちこち連れ出したり……そんなギリ、おまえにはないだろ?

 いけませんか?と、直江は答えた。

――大切なひとを大事にしたいのは当然でしょう?あなたが気にやむことはない。私が好きでしているんですから。当然のことと思っていらっしゃい。

――ばかっ!

からかったつもりはないのだが、高耶は本気で怒りだしてしまった。
他人なんか信じない。――その強い視線の裏に彼の思考が読み取れた。
親切ごかしに近付く奴はなおさらだ。と。 幾度となく共に戦って、ようやく警戒は解いてくれたが、それでも時々、妙な遠慮をすることがある。
いや、遠慮というには態度が不遜すぎるのだが、その頃には、直江も高耶の乱暴な物言いから本音を聞き分ける術に長けていた。

不器用な少年なのだ。
そして、愛されること、慈しまれることに慣れていない。
常にその代価を探し、支払おうとする。
無償の好意を当然のこととして受け取るほどの価値を、彼は、自分の中に認めていない。

高耶を覆う心の鎧はまだまだ厚い。





食事の後、送ってもらう途中で、無理やり酒屋の前で車を止めさせたのは高耶である。

「だっておまえ、運転するせいで全然呑んでないだろ?」

ソムリエの奨めるワインを断ったのを高耶は気にしているらしかった。
せめて酒ぐらい買う、と言い張る高耶に根負けしたかたちで駐車場に乗り入れ、店内に足を向けた。
言う通りにした方が高耶の気持ちが楽になるのは心得ているつもりだが、先程からある疑念が頭から離れない。

「あなたも当然呑むつもりなんでしょうね?」

「もちろん」

半分諦めの混じった問いに、未成年が胸を張って応える。
ため息がでた。

「あれ?今日は止めないのか?未成年はダメだとかなんとか?」

断固とした口調で言っておきながら、相手が止めにかかるのも予想していたらしく、高耶は上目遣いに傍らの男を見た。

「いまさらですか?ここまで来て?いい機会だから悪酔いしない酒の選び方でも教えて差し上げますよ」

「えっ?そんな酒、あんの?」

思いもかけず許しを得た嬉しさに浮き立っているのが見て取れる。

(…まいりましたね…)

見惚れて思わず笑みが洩れた。
駄目だと言ったところでこちらの言い分は歯牙にもかけずに自分の思うとおりに進めるくせに、意外なところでこのひとは歳相応の少年の表情をしてみせるのだ。




広い店内には様々な銘柄の酒が整然と陳列されていた。
そのほとんどは聞いたこともないブランド名が横文字で記されていて、すでに高耶には大雑把な見当しかつかない。
カートにもたれるようにして押しながら、きょときょとと物珍しそうな視線でゆっくり歩く高耶につきあって、直江もまたゆったりと歩を進める。
ふと、高耶の足が止まった。
食い入るように見入る棚には様々なリキュール類が並んでいる。

「高耶さん?」

「あ…わるい。ちょっと知ってるカタチがあったもんだから」

そう云って人差し指で愛しむように触れたのは、赤い封蝋のかっきりと四角張った茶色の瓶だった。

「コアントローですね。これが何か…?」

遠い眼をして高耶が言った。

「昔、美弥がさ、友だちんちでケーキを焼いたってすごくはしゃいで帰ってきたことがあったんだ。うちじゃとてもつくれないのに、本まで借りてきて…その中のページに洋酒が何本か紹介されていたんだ。クリームに入れるとすごく美味しくなるんだって、あいつ、嬉しそうに話してた…」

―――ほんとだよ。おにいちゃん。ほんっとに魔法みたいに美味しくなるの。お酒なのに、ちっともお酒臭くなくてすごくいい匂いがするんだよ…。

耳の奥に、あのときの美弥の声が木霊する。

「でもオレはろくに話を聞いてやらなかった。酒ってだけで嫌だったんだ。頭に血が上って、こんなもの、返して来いって、凄い剣幕で怒鳴っちまった……」

その時の妹の怯えたような表情を、高耶はたぶん一生忘れない。
後悔はすぐにやってきた。
ふわふわとしたしあわせな夢を踏み潰してしまった罪悪感。
美弥が悪いわけではない。いまのはただの八つ当たりだ。
自分が父にされていることを、守ると誓った妹に対して繰り返してしまった、その後ろめたさに吐き気がした。
蒼白になった兄の顔に何を読み取ったのか、美弥はそのとき、必死に笑おうとしていた。

―――うん。わかった。ごめんね…すぐ返してくるから

「…ガキだったよな。いきがるだけで、あいつの気持ちなんかまるで考えちゃいなかった。…美弥はオレにも幸せな気分をくれたかっただけなのにな……」

どこまでも落ち込みそうな高耶の独白を、掌を重ねることで直江が遮る。
顔を上げると自分を見つめる真摯な瞳があった。 そのままゆっくりとかぶりを振る。
その仕種に癒されたように、高耶がほうと息を吐いた。
気を取り直すように明るい声を繕う。

「悪い。ヘンな話聞かせちまった。それに、どっちみち、ここらの棚には用はなさそうだし。さっさと行こうぜ……って、おい。なにやってんだ?」

直江の手が無造作に伸びて次々と酒を選び取っている。たちまちカートの中は華やかな色彩でいっぱいになった。
高耶は呆然とそれを見つめている。

「コアントロー、キルシュワッサー、カルバドス、クレーム・ド・カカオ……マイヤーズ・ラムと…、後はコニャックですね。向こうの棚に回ってみましょうか?」

「…ま・まいやーず…なに?」

まるで異国の呪文のような言葉の羅列は、どうやら酒の名前だったらしい。呆然としたままの視線をカートの酒から、傍らの男へと移す。
にっこり笑って直江は言った。

「美弥さんへのおみやげです。これだけあればケーキ屋さんが開けるかもしれませんね」

「お、おみやげって、これ全部か。こんな酒のやま、いったい何にするっていうんだ?」

「知りませんか?お菓子の風味づけに使われる代表的なリキュール類です。生のままだとちょっと甘味と香りがきつすぎますけどね」

「いや、そうじゃなくて」

うろたえて上手く言葉を紡げないでいる高耶から直江はカートを取り上げ、そのまま別のコーナーへと移ろうとする。
慌てて前方に回りこみ、高耶は拳を握り締めて問い詰める。

「大体なんで美弥にみやげなんだよ?こんなに…使い切れねーだろ」

きょとんとした顔で高耶を見下ろした直江は不意に考え込む表情になり、腕組みをして宙を仰いだ。

「うーん。それもそうだ。お菓子の本もつけたほうがよさそうですね。いろいろ挑戦できるように」

「直江!」

……遊ばれている。
完全にもて遊ばれている。
それにも気づかず、なおも言い募ろうとする高耶をすり抜けて、直江はブランデーの棚に陣取り、しばらく眺め渡した後、おもむろにその中の一本を選び出した。
壜同士がぶつからないよう、身を屈めて慎重にカート内に収める。上体を伸ばしたところで睨みつけるような高耶の視線とぶつかった。
どちらも無言だった。 直江も、今度は茶化さなかった。
唐突に質問をしてくる。

「トラウマの癒し方を知っていますか?」

「いや」

「……傷を受けたのと同じ状況を作り出すんです。でも、まるっきり同じってわけじゃない。今度は乗り越えられるよう、予め自分が納得できるまで対処の方法をイメージしておく…つまりは記憶の上書きですね…」

直江の言葉を反芻するように眼をすがめていた高耶が、はっとしたように視線を泳がせた。
そんな高耶を優しく見つめながら、囁くように直江が続けた。

「ほら、心当たりがあるでしょう?昔の暴言を気に病んでいるのなら、同じ状況で今度は思いっきり素直な言葉をかけてごらんなさい。美弥さんは…とっくに許していると思いますよ。次はあなたがあなた自身を許すべきだ」

つよい兄妹だから…と直江は思う。
全身で自分を庇う高耶の真意を美弥は高耶自身よりも汲んでいることだろう。
どんな言葉を投げつけられたとしても。彼女はとっくに許している。
だが、高耶が自ら傷つけた思いは美弥の笑顔でしか癒せないのだ。

「いまさら…なんて言えばいいんだ」

「簡単ですよ。美弥さんのつくるケーキを食べて、美味しいって一言言えばいいんです」

「ケーキったって…うちにはオーブンなんてないんだぞ?」

「オーブンがなくたって、つくれるお菓子はいっぱいあるんですよ」

子どもじみた言い訳をひとつひとつ潰されていった格好だが、ここに来て、高耶は急にまじまじと直江の顔を見つめた。 そして疑わしそうに口を開く。

「……なんでおまえ、そんなに詳しいんだ?」

もっともな疑問に、直江が肩をすくめてみせる。

「姉がね、一時期凝っていたんですよ。ケーキづくりに。ご存じないでしょうが、菓子を作る工程にはけっこう面倒な下ごしらえや力仕事がありましてね、その助手に駆り出されたのが末弟の私と言うわけです」

高耶が目を丸くして男を見つめる。 口元を両手で抑えているのは吹き出すのをこらえるためだ。
そうしながら、今度はリキュールと直江の顔を交互に見比べた。

「おまえが?ケーキを?この酒全部使いこなせるぐらいに?」

矢継ぎ早の質問にため息をついて直江が言った。

「私に拒否権はなかったんですよ。実際、なかなか面白かったですし。ただあの当時はこんなふうに手軽に買える代物ではなくて…取り寄せるのに出入りの酒屋にずいぶん無理を言ったらしいですが」

それはそうだろう。
酒屋の御用聞きといえば、日本酒やビール、せいぜいがウイスキーと相場が決まっている。
そんな環境で、この舌を噛みそうな名前の数々を注文したら……、当然両者の間にはすったもんだがあったらしく、その一連のやり取りですっかり名前と特徴を覚えたのだと言う。
高耶は当初の言い分も忘れてしみじみと別な感想を洩らした。

「おまえの姉さんって…お嬢様だったのな……」

「そりゃあ、もう。長女ですしね。天下無敵の女傑なんです」

それでこの話はおしまいとでもいうように、直江はすたすたと歩き出す。
レジに向っているのに気がついて、慌てて高耶が追いすがる。

「待てってば。本当に買うのか。それ」

なにをいまさら、といった眼で直江は高耶を見た。

「もちろん。ただこれは私が美弥さんに買うものですから、別会計にしようと思って…」

高耶さんにはしっかり奢ってもらいますから、ちょっと待っていてくださいね、と、屈託なく続ける男に高耶は最後の抵抗を試みる。

「オレはイヤだからな。そんな大荷物かかえて帰るの。第一、どうやって電車に乗るんだよ?」

そんなことを気にしていたのか?といった表情で、直江は片方の眉をあげてみせた。

「宅配便にしますから、ご心配なく」

あっさりといなされて、高耶はそのまま直江が支払いを済ませ、カウンターへ向うのを見ていた。
伝票に書き込む手元には少しのためらいもない。
自分の住所でも記入するようにすらすらとペンを走らせている。
こんなにも自分のことを把握している直江という存在に改めて瞠目する思いだった。

守られている。
見つめられて包まれている。この男の大きくて温かな翼に。

身体の奥から突き上げる衝動に耐えるように高耶は固く眼を瞑る。
こんなものに慣れてはいけない。
独りで立つことを忘れたら、駄目だ。
固く自分に言い聞かせる。すでに心を許しかけているのに愕然としながら。

直江という男は甘い毒だ。
必要以上に関わるべきではない。そうでもしないと、自分で自分を抑え切れなくなる。

暗示にかけるように深く深く念じる。
これ以上、甘えることを覚えないうちに。


「高耶さん?」

掛けられた声にはっと我に返った。
男の顔を正視することが出来ずに、高耶はわざとぶっきらぼうに言葉を返した。

「もう終わったのか?」

「ええ、明後日には届くそうです。さて、お目当てのものを探しに行きましょうか?」

どことなくぎこちない高耶を見ても、直江は何もいわなかった。
この男はいつもそうだ。
普段は平気で甘やかしにくるくせに、心が揺らいでいる時はむやみに懐に踏み込まない。
まるで弱みに付け込むのを潔しとしないように、一歩引いて、高耶の矜持を守りにかかる。
そのスタンスは絶妙で、気遣っていることすら、高耶には気取らせない。





そのまま自然な足取りで奥へと進む直江を高耶がほっとしたように追いかける。
たどり着いたのは突き当たりの冷蔵ケースだった。

「……日本酒なのか?」

ひととおり見渡して内部の一本を取り出した直江に、高耶が不審げに声を掛けた。
なにしろこのテの酒にいい思い出はない。
露骨に不機嫌を表す高耶にも、直江は動じなかった。

「種類でいえばそのとおりです。米と水と糀でできている。逆にいえば余計な混ぜものがない。酸化防止剤入りのワインよりもずっといい。あなたが考えているようなものでないことは私が保証します」

ここまで言われては頷かないわけにはいかない。が、ワインの壜によく似たそれを見ながら高耶は呟いた。

「やっぱ、一本じゃ足りないよな」

「おや、そんなに呑む気なんですか?」

からかう調子の直江の口調に断固として言い返す。

「自信があるんだろ?しっかり呑んでやるから、もう一本みつくろってくれ」

そんな高耶に微苦笑を浮かべながら、別の壜に手をかけた。 そして、ぽんと高耶に手渡す。
ひんやりとした感触を両の掌に握りこみながら、高耶は直江に背を向けた。
踏み出そうとした足が、突然、ぴたりと止まる。そのまま振り返らずに訊いてきた。

「今晩はおまえんちに泊まっていいよな?」

では、どこで呑む気だったんだ?

言わずもがなのセリフに頬が緩む。が、何気ない声音を装って応えた。

「ええ、もちろん。ふたりで呑みましょう」

そそくさとレジに向う高耶を見送りながら、押し殺した笑みが広がった。
他人に馴れない獣が、目線を合わせずにしっぼの先だけ振ってみせるような、そんなイメージが高耶の後ろ姿に重なったのだ。

ほんのすこし距離を縮めてくれた気がするのは自分の思い過ごしだろうか?
不器用な少年の表現した感謝の気持ちが、たまらなく愛しかった。



なやましい夜がやってくることを、ふたりは、まだ知らない。


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とりあえずの番外イントロUPです。
本文中で説明しかけたお酒買出しの部分が思いがけなく長くなりそうだったので独立させました。
和綴じ本では、後ろにおまけとしてくっつけたのですが、こちらを始めに持ってきたほうが判りやすいかと思うので。
……ちょっとだけ、軽めの語り口(?)を目指したんでした…。





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