数日間留守にしていた部屋は夏の熱気がこもっていた。 ドアを開けたとたん押し寄せてくる昼の余韻に、部屋の主が閉口したように眉をしかめる。 「これは……エアコンより空気の入れ替えが先ですね」 独り言のように呟くと、後ろを振り返る。 「突き当たりがリビングです。どうぞお入りください。高耶さん。私は少し風を入れますから……」 云いながら、慌しく動き始めた。 「ん。わかった」
小さく頷いて奥へと進むが、いきなり座り込むのも気が引ける。
ベージュ系の落ち着いた色調の壁とフローリング。 こんな無機質な部屋に住んでいて平気なのだろうか?あの男は。
主の気性なのか、几帳面すぎるほどに整えられた空間は、人の匂いが全然しないこともあって、冷たくどこかよそよそしい。
いったいいつから自分はこんなに弱くなったのだろう?
俯いた頬を、さわりと涼しい夜気が撫でた。あちこち開け放ってようやく風の通り道ができたらしい。 「どうしました?」 怪訝そうに立ちすくむ高耶を見る。 「あ…あんまりモノ置いてねぇのな…っておもって。なんか殺風景じゃねえか?この部屋」 「ああ」 合点がいったように微笑んで、直江は高耶から包みを受け取り、何でもないことのように言った。 「私には必要のないものですから」 「必要ないって……自分の部屋だろ?すこしくらい居心地よくしようとか、考えないわけ?」 男に対する気恥ずかしさからつい声を荒げてしまう高耶に、直江はなお、微笑を崩さぬまま告げる。 「しょせん仮の宿りですよ。寝に帰ってくるだけですしね。旅先のホテルと変わらない…」 淡々とした声の裏に紛れもない真実の重みを感じて高耶はそれ以上言えなくなる。 「それに今はあなたがいる。それだけで充分ですよ。さあ、わざわざ私のために買ってくださったんでしょう?冷えているうちにいただきましょうか」
直江は硝子の杯を用意していた。 「あ……」 水みたいだ。 そんなはずはないのだが、そうとしかいいようがない。
口に含んだ液体は、何の抵抗も違和感もなく、すとんと喉へおちていった。 「うまい…」
それ以外に言葉が浮ばない。 「悪い…おまえに呑ませるために買ったのに、まだ乾杯もしてなかった」
チンと澄んだ音がして、杯の中の液体が揺れた。 「こんな酒もあったんだ…」
直江は無言のままだ。ただ問い掛けるような視線を高耶に向ける。 「オレ、酒ってどれも同じだと思ってた。そりゃ、味はいろいろだけど…どれも口の中でツンと来るだろ?アルコールだからそれが当たり前で、結局手っ取り早く酔っ払うための方便で…こんなふうに楽しめるだなんて思ってもみなかった」 「口に含んで楽しむこと自体が幸せなお酒というものもあるんですよ…。少なくともこれを自棄酒にしようとは思わないでしょう?」
とんでもないというように高耶がふるふると首を振る。 「私もです。これを飲むときは穏やかな気持ちでいたい。寛げる場所で気に入ったグラスで…一番大切な人と接していたい…今みたいに」
ぶぶっと高耶が噎せ返る。 「ひとがマジになってるときに、フカシてんじゃねーよ。第一相手が違うだろうが。そういうことは、他所で言え。よそで」 「おや、信じてもらえないんですか?本気なんですけどねぇ」 肩をすくめてみせる直江に、高耶が杯を突きつけた。 「いいから、おかわりっ!」
直江は逆らわなかった。 「なあ…同じ米から造る酒なのになんでこんなに違うんだ?特別高級な材料でも使ってんのかな?」
心底不思議そうな顔だった。
思わず見惚れてしまった直江だが、高耶はそれに気づかなかった。 「直江?」 さすがに不審そうに応えを促す声にようやく男は口を開いた。 「酒米自体はさほどかわらないと思いますが…決定的に精米の仕方が違うんです」 「精米って、あれか。玄米からその…白い米にするって奴だろ?そんなんで何が違ってくるんだ?」 ますますわからないという顔の高耶に微笑みながら直江が続ける。 「ご飯として食べるお米は約一割削ります。普通の酒なら三割。でも、これはさらにその倍、つまり半分以上を削ってしまうんです」 高耶は眼を丸くして聞いている。 「なんだ?それ?なんでそんなもったいないことするんだ?」
まっとうと言えばまっとうな、このうえなく健全な感想だ。
「だからそこが、あなたのいうところの特別高級な材料になるんです。米粒を削って磨いて最後には真円に近いほど小さな丸い粒にしてしまう。
雑味を含んだ部分を一切切り捨てて本当に純粋な核だけを残すんです。 …あなたに似ている。と、心のうちで呟く。
当人が聞けば怒り狂うだろうが、それが直江の本心だった。
そんな直江の心中は知らず、高耶は視線を杯に戻している。 「贅沢な酒なんだ…」 ぽつんと洩らす言葉を男が受けた。 「そう、贅沢で繊細でとびきり我儘な…でもそれだけの価値がある、あなたに相応しい酒です」
意味を捉えかねたように高耶が直江を見返す。 「それはオレに言うセリフじゃないだろ?オレの中にいる景虎に聞かせたいんじゃないのか?」 「高耶さん…」
「今の話…、まるでオレと景虎みたいだよな。おまえが景虎を必要としているのは解っている。例えるならおまえが欲しているのは景虎という核でオレは景虎のおまけだ。できるもんなら削り取ってしまいたい雑味の部分だ。
そうでないと本当にこの腕に頼ってしまいそうになる。
そんな危機感が高耶の中に在る。
ずっと抱え込んでいた思いを吐露した爽快感と、後戻りのできない喪失感がない交ぜになって、たまらずに高耶は眼を背けた。
それをなだめるように、大きな手が柔らかく重ねられた。 「誤解させてしまいましたね」 「直江?」
「精米という技術はね、高耶さん。以前はそんなに高くなかった。ここまで削ることが可能になって、結果こういう酒が世にでるようになったのはせいぜい二三十年前からです。
直江の誠実さは、あっさりと高耶の拘りを切り崩していく。 ふっと緊張が解けた。そしてはにかむような微笑を返す。 「まるで口説かれているみたいだな」 「口説いているんですよ」 「ばか…」
以前と同じ言葉、同じ口調なのに、もうそこに他人に対する拒絶はない。
高耶という少年は、野生の獣のようだった。
その彼が、初めて身のうちに他人の存在を受け入れようとしている。
「あれ、おわっちまった……」 確認するように瓶の首を二本の指でつまみ持ち、軽く振ってみせる。
言外にお代わりを請求している仕種に直江が苦笑した。 「まだ呑むんですか?」 「駄目か?」 びんを挟んでの睨み合いは、結局直江の負けに終わった。 「どうなってもしりませんよ」 ため息をつきながら捨て台詞を残して立ち上がる。 「どうにでもしてくれ」 「…!っ」
笑いを含んだ高耶の口調に、一瞬、背中が強張った。
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