聯珠 1


数日間留守にしていた部屋は夏の熱気がこもっていた。
ドアを開けたとたん押し寄せてくる昼の余韻に、部屋の主が閉口したように眉をしかめる。

「これは……エアコンより空気の入れ替えが先ですね」

独り言のように呟くと、後ろを振り返る。

「突き当たりがリビングです。どうぞお入りください。高耶さん。私は少し風を入れますから……」

云いながら、慌しく動き始めた。

「ん。わかった」

小さく頷いて奥へと進むが、いきなり座り込むのも気が引ける。
結局、酒瓶の入った袋を抱えたまま、高耶は所在なく突っ立ったままだった。
物珍しげに周りを見渡す。 直江の部屋に入るのは初めてだった。

ベージュ系の落ち着いた色調の壁とフローリング。
モノトーンで統一されたシンプルなデザインのテーブルとソファ。
目に付く家具といったらそれくらいで、 部屋の片隅の電話やパソコンの置かれた一画を除けば、後はテレビすら見当たらない。
唯一テーブルの下に敷かれた灯芯草のラグが夏らしさを演出しているだけだ。それ以外、カレンダーひとつない。

こんな無機質な部屋に住んでいて平気なのだろうか?あの男は。

主の気性なのか、几帳面すぎるほどに整えられた空間は、人の匂いが全然しないこともあって、冷たくどこかよそよそしい。
部外者である自分が拒絶されているようで落ち着かない。
つい眼が泳いで、視界の端を時折掠める男の姿を追ってしまいそうになる。
そんな自分にはっとして、高耶は、拳を握りこみ、唇を噛んだ。

いったいいつから自分はこんなに弱くなったのだろう?
以前はこんなことはなかったのに。
これではまるで刷り込みをされた雛鳥だ。直江の存在が気になって仕方がない。

俯いた頬を、さわりと涼しい夜気が撫でた。あちこち開け放ってようやく風の通り道ができたらしい。
同時に直江が奥から姿を見せた。

「どうしました?」

怪訝そうに立ちすくむ高耶を見る。

「あ…あんまりモノ置いてねぇのな…っておもって。なんか殺風景じゃねえか?この部屋」

「ああ」

合点がいったように微笑んで、直江は高耶から包みを受け取り、何でもないことのように言った。

「私には必要のないものですから」

「必要ないって……自分の部屋だろ?すこしくらい居心地よくしようとか、考えないわけ?」

男に対する気恥ずかしさからつい声を荒げてしまう高耶に、直江はなお、微笑を崩さぬまま告げる。

「しょせん仮の宿りですよ。寝に帰ってくるだけですしね。旅先のホテルと変わらない…」

淡々とした声の裏に紛れもない真実の重みを感じて高耶はそれ以上言えなくなる。

「それに今はあなたがいる。それだけで充分ですよ。さあ、わざわざ私のために買ってくださったんでしょう?冷えているうちにいただきましょうか」







微風の吹き抜けるリビングで、高耶は珍しそうに直江の手許を覗き込む。
直江の選んだ一本は、ワインのようにコルクの栓がしてあった。
鋼色の螺旋の刃先がくるくると動いて柔らかなコルクに飲み込まれていく。
器用に操る手がそれを逆手に持ち替えると、たいして力をこめたようにも見えないのに、するすると栓が抜けてきた。
ぽんっとかすかな音がして、ほのかな香りが漂う。
酒の匂いには違いないのだが、あの、おぞけをふるうような嫌悪感はやってこない。

直江は硝子の杯を用意していた。
淡い色味の玻璃は、酒を注がれても変わることなく清水のような透明感を保っている。
目線で促されて、高耶はそれをおそるおそる口元に運んだ。

「あ……」

水みたいだ。

そんなはずはないのだが、そうとしかいいようがない。

口に含んだ液体は、何の抵抗も違和感もなく、すとんと喉へおちていった。
それからじんわりと広がる甘やかな痺れと、鼻腔に抜ける果物のような芳香。
その感覚をもっと味わいたくて、二度三度と口をつける。たちまち朝顔型の杯は空になった。
ほうとため息をついて顔を上げると、間近に見慣れた男の顔があった。

「うまい…」

それ以外に言葉が浮ばない。
口元をかすかにほころばせて、直江は軽く壜を持上げて見せる。
誘われるままに杯を受け、それからはっと男から壜を取り上げ、相手の杯を満たす。

「悪い…おまえに呑ませるために買ったのに、まだ乾杯もしてなかった」

チンと澄んだ音がして、杯の中の液体が揺れた。
照明を受けて陽炎のような煌きが硝子の中でたゆたっている。
目の高さに持上げたそれを、しみじみと眺めて高耶は言った。

「こんな酒もあったんだ…」

直江は無言のままだ。ただ問い掛けるような視線を高耶に向ける。
それに背中を押されるように高耶が続けた。

「オレ、酒ってどれも同じだと思ってた。そりゃ、味はいろいろだけど…どれも口の中でツンと来るだろ?アルコールだからそれが当たり前で、結局手っ取り早く酔っ払うための方便で…こんなふうに楽しめるだなんて思ってもみなかった」

「口に含んで楽しむこと自体が幸せなお酒というものもあるんですよ…。少なくともこれを自棄酒にしようとは思わないでしょう?」

とんでもないというように高耶がふるふると首を振る。
深く頷いて直江が続けた。

「私もです。これを飲むときは穏やかな気持ちでいたい。寛げる場所で気に入ったグラスで…一番大切な人と接していたい…今みたいに」

ぶぶっと高耶が噎せ返る。
ひとしきり咳き込んだ後、こぼれてしまった雫をみてもったいねーと呟きつつ、ぎろりと直江を睨む。

「ひとがマジになってるときに、フカシてんじゃねーよ。第一相手が違うだろうが。そういうことは、他所で言え。よそで」

「おや、信じてもらえないんですか?本気なんですけどねぇ」

肩をすくめてみせる直江に、高耶が杯を突きつけた。

「いいから、おかわりっ!」

直江は逆らわなかった。
そっぽをむいて、それでも酒杯は離さない高耶の耳元がほんのりと赤い。
それでは、少しは気にしてもらえたわけだ。
気づかないふりをして、その実、何ひとつ見逃さない男の口元が緩む。
それを隠すように、直江は杯の残りを一気に干した。
彼にとっても今夜の酒は特別だ。愛しいひとを傍らにおいて呑む機会など滅多にないのだから。
手酌で酒杯を傾けながら、高耶の手許にも気を配るのを忘れない。
その高耶は、なにやら考え込む顔になっていた。
暑苦しいからと、ラグの上にじかに胡座をかいていたのが、それも崩し、ソファにもたれて片膝を抱え込んだ楽な姿勢になっている。
その立てた膝に杯を持つ手を載せているのだが、先程から、視線はその杯に向けたままだ。
横からすっと伸びて酒を注ぎ足す手に、ふっと気づいたように直江の顔を見る。

「なあ…同じ米から造る酒なのになんでこんなに違うんだ?特別高級な材料でも使ってんのかな?」

心底不思議そうな顔だった。
軽く寄せられた眉。ほんの少しひらいた唇。戸惑ったような瞳がまっすぐに直江を見つめてくる。
そこに暗い翳りのないことがただうれしい。
それだけで、高耶の表情は驚くほど可愛らしい素直な少年のものとなる。

思わず見惚れてしまった直江だが、高耶はそれに気づかなかった。
いつもなら、こういう視線には人一倍敏感に反応するのに、やはり酔いがまわっているらしい。じっと直江の応えを待っている。

「直江?」

さすがに不審そうに応えを促す声にようやく男は口を開いた。

「酒米自体はさほどかわらないと思いますが…決定的に精米の仕方が違うんです」

「精米って、あれか。玄米からその…白い米にするって奴だろ?そんなんで何が違ってくるんだ?」

ますますわからないという顔の高耶に微笑みながら直江が続ける。

「ご飯として食べるお米は約一割削ります。普通の酒なら三割。でも、これはさらにその倍、つまり半分以上を削ってしまうんです」

高耶は眼を丸くして聞いている。

「なんだ?それ?なんでそんなもったいないことするんだ?」

まっとうと言えばまっとうな、このうえなく健全な感想だ。
普段から台所にたっているだけに、主食になる米の半分以上を削り取るという説明には納得できかねるものがあるらしい。
知りたがったのは自分なのに、どこか責める眼つきで直江を見る。

「だからそこが、あなたのいうところの特別高級な材料になるんです。米粒を削って磨いて最後には真円に近いほど小さな丸い粒にしてしまう。 雑味を含んだ部分を一切切り捨てて本当に純粋な核だけを残すんです。
そりゃあ、綺麗なものですよ。まるで内側から光を発しているみたいに輝いて…真珠をみているようで…」

…あなたに似ている。と、心のうちで呟く。

当人が聞けば怒り狂うだろうが、それが直江の本心だった。
彼の魂は輝いている。
不良がかった粗暴な少年という外見や過去も、その輝きは隠せない。
ましてや、こんなに素直な表情で他愛のない会話を楽しむ様子を見せられては…その顔から目が離せない。

そんな直江の心中は知らず、高耶は視線を杯に戻している。
注がれたままだったそれをゆっくりと引き寄せ、改めて味わうように口に含んだ。

「贅沢な酒なんだ…」

ぽつんと洩らす言葉を男が受けた。

「そう、贅沢で繊細でとびきり我儘な…でもそれだけの価値がある、あなたに相応しい酒です」

意味を捉えかねたように高耶が直江を見返す。
直江もまた、高耶の反応を窺うように視線を逸らさない。
真っ赤になって俯くか、それとも怒り出すかと思っていたのに、高耶はそうはしなかった。
妙に冷えた哀しそうな瞳をして、こう云ったのだ。

「それはオレに言うセリフじゃないだろ?オレの中にいる景虎に聞かせたいんじゃないのか?」

「高耶さん…」

「今の話…、まるでオレと景虎みたいだよな。おまえが景虎を必要としているのは解っている。例えるならおまえが欲しているのは景虎という核でオレは景虎のおまけだ。できるもんなら削り取ってしまいたい雑味の部分だ。
オレを守るのだって…それはオレの為じゃないだろ?オレの中の景虎を守っているんだ。
怨霊退治が景虎の義務だというなら務めは果たす。だけど、必要以上にオレにかまわないでくれ。頼むから……これ以上オレを甘やかすな」

そうでないと本当にこの腕に頼ってしまいそうになる。
自分の所有ではないのに。いつかは去ってしまうのに。

そんな危機感が高耶の中に在る。
すがりついて頼ることを覚えて、なし崩しに弱くなる自分が、怖い。
そして、自分をそうさせた存在がある日突然去っていってしまうのは…耐えられない。

ずっと抱え込んでいた思いを吐露した爽快感と、後戻りのできない喪失感がない交ぜになって、たまらずに高耶は眼を背けた。
手が小刻みに震えている。
握りしめていた空の器がテーブルにあたってかたかたと不規則なリズムを刻む。

それをなだめるように、大きな手が柔らかく重ねられた。
包み込まれるような温かさに高耶が顔をあげる。何か言いかけて思い直したように口を噤んだ。
視線の先には、今までと変わらない直江の穏やかな顔がある。

「誤解させてしまいましたね」

「直江?」

「精米という技術はね、高耶さん。以前はそんなに高くなかった。ここまで削ることが可能になって、結果こういう酒が世にでるようになったのはせいぜい二三十年前からです。
昔ながらの伝統的な杜氏の技法と時代が生んだ近代的な高水準の精米技術が出会った現在だから…味わえるんです。
あなただって同じことだ。あなたがあなただから大事にしたいんです。
景虎様のこと以前に、あなたが生きてきた丸ごと全部の「仰木高耶」という存在が愛しくてたまらない……大切なひとだから包み込んで守りたくなる……それではいけませんか?」

直江の誠実さは、あっさりと高耶の拘りを切り崩していく。
こんなふうに心の裡を言われては、身にまとっていた不信の鎧はもう用をなさない。
この男を信じてもいいのだと、頼ってもいいのだと思いたくなる。

ふっと緊張が解けた。そしてはにかむような微笑を返す。

「まるで口説かれているみたいだな」

「口説いているんですよ」

「ばか…」

以前と同じ言葉、同じ口調なのに、もうそこに他人に対する拒絶はない。
うなじから肩、背中にかけてのラインが微妙に柔らかになっている。まるで内側から光がにじみ出ているようだ。

高耶という少年は、野生の獣のようだった。
どんなに馴れ合ったようにみえても決して他人に超えさせない一線を持っていて、不用意に踏み込むとたちまち身を翻し牙を剥いた。
他人に身を委ねることを異常なくらい嫌って、常に自分の足で立とうとしていた。
それがこの少年の矜持であり、今までの環境が彼に叩き込んだ、いわば人生訓だったのだ。

その彼が、初めて身のうちに他人の存在を受け入れようとしている。
それが自分だという事実に鳥肌が立つ。
全身をゆっくりと巡っていた酔いとは別の熱い衝動が突き上げる。




高耶の手がひょいと伸びて、酒壜を取り上げた。
空になったままテーブルにおかれていた直江の杯を満たし、ついで自分にも注ごうとして、残念そうな声を上げる。

「あれ、おわっちまった……」

確認するように瓶の首を二本の指でつまみ持ち、軽く振ってみせる。

言外にお代わりを請求している仕種に直江が苦笑した。
少々小ぶりとはいえ、ふたりで一本あけてしまったのだ。
腹に収めた量は多いとはいえないまでも決して少なくはないはずだ。

「まだ呑むんですか?」

「駄目か?」

びんを挟んでの睨み合いは、結局直江の負けに終わった。

「どうなってもしりませんよ」

ため息をつきながら捨て台詞を残して立ち上がる。

「どうにでもしてくれ」

「…!っ」

笑いを含んだ高耶の口調に、一瞬、背中が強張った。
いくらでも深い意味に取れる言葉を、高耶はさらりと口にする。
振り返りたい衝動をこらえて、直江は新しい酒を取りにキッチンへと向った。



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五年前の原稿を今回七転八倒してUPしてみました。
もしもあちこちに予告だしてなかったら、間違いなくそのままばっくれていたことでしょう。すごく恥ずかしい…(>_<)
「少年」だの「男」だの「可愛らしい」だの「素直」だの…。いったい誰のことさ?と、突っ込みながら悶えてました(笑)
拙い文ですみません。…でも、五年前の私はそれなりに真剣にこの原稿に向き合っていたんです。これでも。




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