シュネービッチェン  3




何の変哲もない、田舎の小さな入り江の漁港だった。
ここから三百九十年前に遠大な使命を帯びたガレオン船が出港したことなど嘘のようだ。
その船は忠実に復元されて、今は特設の桟橋に係留されている。
観光客に混じって見学もしてみたが、当時の技術に目を瞠り、同時に不確定要素を抱えたまま大海原へ漕ぎ出した人々への驚嘆の想いが錯綜した。
そして、この船は、再びこの港に帰ることはなかった。遠い異国にその記録が残る。


「あっけなかったな…」
手すりにもたれて、ぼんやりと海を見ながら高耶が呟いた。
今、ふたりは湾内を一望できる高台にいる。午後も遅い時刻で、幹線からも外れたこの展望台に人気はない。
高耶は長いことそうやって海を眺めていた。
胸中に様々な思いが渦巻いた末に、ようやく浮かび上がってきた泡のような呟きだった。
否定も肯定もしかねてただ頷く。
高耶も返事は期待していなかったらしく、再び自分の思いに沈んでいく。
調伏は高耶の言葉どおり、呆気ないほど容易かった。標的となった男は、まるでそうされる事を望んでいたかのようにさしたる抵抗もせず、晧い光に呑まれて消えていった。
自らの手で彼岸に送った相手のことを、ずっと高耶は考えている。

「なぜ、なんだろうな…」
ぽつりと言って、ふっと顔を歪めた。
「きっとあいつもずっとそれを考えていたんだろうな…」
 なぜ、自分だったのか。
 なぜ、切り捨てられねばならなかったのか。
 なぜ、真摯な思いを受け止めてはもらえなかったのか。
何千回何万回繰り返しても答は出ない。
「彼はずっと待っていたんだと思いますよ。堂々巡りの鎖から自分を断ち切ってくれる誰かを。ああでもしなければ、彼は安らぐことは出来なかった。あなたは慈悲を垂れたんです。これで彼は長い迷夢から醒めてようやくやり直すことが叶う…」
「うらやましいのか?」
何も知らないはずなのに、直江の心を深く抉る問いを投げ掛けてくる。
彼が……常長が抱え続けていた問いは、そのまま直江にも通じるものだった。主君への確執という同じ匂いを高耶は無意識に嗅ぎ取っているらしい。
否定も肯定もせずにただかぶりを振る。
「私にはあなたがいますから…。傍にいると言ったでしょう?独りで逝って何をやり直すというんです?」
高耶の顔にはにかむような笑みが浮んで一瞬で消えた。直江から視線を逸らして、今までの思いを振り切るように明るい声を繕う。
「せっかく海にきてんのに、なんかこの辺って山だらけだよな。水平線に沈む夕日ってやつに憧れてたのに」
「それはちょっと無理かもしれませんね。こちらは太平洋側ですし」
「ちぇっ、つまんねーの」
高耶の言う無茶苦茶な注文に苦笑しながら、頭の中でこの半島の地図を広げてみる。先端の丘陵地を目指せばなんとかなるかもしれない。だが、時間との競争になりそうだ。
確約は出来ないが、と、前置きしてそう告げると高耶はあっさり承諾した。どのみち、このまま市内の宿に戻る気分ではないらしい。尾根筋を曲がりくねって伸びる道路をさらに東へ向かう。

ほぼ、三百度の眺望が開ける岬に到着したのは日の入りの少し前だった。
沈む入日を気にしながら、砂浜へと続く遊歩道をくだる。
見晴らしならば乗り入れた駐車スペースの方が格段にいいのだが、高耶は目線と同じ高さで見たいのだと言い捨てて、飛ぶような勢いで足場の悪い小道を駆け下っていった。たちまちその姿が視界から消える。
ため息をついて直江も後を追った。
左手に見える海が、岩場や樹々に遮られるたびにひやりとしながら、ひたすら下を目指す。やがて小道は平坦になり、あたりは赤松の繁る防砂林の帯にはいった。
岩に砕けてどよもす轟音とは違う、規則正しい波の音が微かに聞える。赤みを帯びた黄金色の光が真横から幾筋も林の中を走り、樹肌を浮かび上がらせている。その中の一筋がまともに直江の目を射て視界を奪った。片手を翳し眼を眇めながらようやく林を抜けた。
遮るものがなくなって、波の音が急に大きく耳に響いた。
拓けた視界の正面に、沈む夕日と、逆光に浮ぶ人影があった。

砂浜にスニーカーが脱ぎ散らかされている。膝下まで海水に浸かって、高耶は夕日を見つめていた。
水平線上に蜃気楼のように霞む島影と陸地との間に、紅蓮の真円と化した太陽が吸い込まれていく。波間をオレンジ色に染めて、残照が水面に煌めく。その光は高耶の全身をも照らし、その影を黒く長く伸ばしていた。
両足を踏ん張り、身じろぎ一つしない後ろ姿を直江はただ見守っていた。
日が完全に没し、西の空にわずかに夕映えを残すだけになって、ようやく高耶が振り返る。忘我の境地にいるように夢見がちな視線が、直江を認めて照れ臭そうに破顔した。
ざぶざぶとことさらに水音を立てて浜へと上がる。波打ち際の固くしまった砂の上で、高耶は歩み寄ってきた直江から放り出していたスニーカーを受け取った。
「サンキュ…」
「気は済みましたか?」
答の代わりに水平線を振り返る。
「あそこに…西方浄土があるんだなって…そんな気になった。夕焼けなんていつも見てんのに不思議なもんだな」
今日の調伏でのもやもやした思いがようやく吹っ切れたのだろう。しみじみと語る声には先程までの無理につくった調子がない。
「さあ、早く戻らないと…足元がどんどん危なくなってしまう」
すでに夕闇が濃い。星が一つ二つと瞬き始めていた。
「ん。わかった」
つま先だけを引っ掛けてそのまま歩き出そうとした高耶だが、直江に止められた。考えてみればそれも当然で、これから暗い上に足場の悪い山道を駐車場まで登らねばならない。しぶしぶ身を屈めて、紐を結び直した。
濡れた感触が気色悪い。
傍らに佇んでいる見守る男に、文句のひとつも言ってやろうと顔をあげたその時、目に映った光景に身体中が強張った。
松の林の上に赤い月が出ていた。見上げる男の肩越しにそれが見える。
わけもなく、昏い恐怖がこみ上げてくる。
どよもす波の音も、白く砕ける波頭も。
傍らにいる男のつくる、自分を覆い尽くす黒々とした影も。
……あのときと同じだ…
身体の芯が冷えてゆく。
冷や汗が噴きだす。
喉がからからに干上がって震えを抑えることができない。
「高耶さん?」
突然、固まってしまった高耶を怪訝に思った直江が声を掛ける。それでも反応しない高耶の顔を覗き込もうと身を屈めた。
同時に鋭い拒絶の悲鳴が響き渡った。
「寄るなっ!」
高耶は四百年前の悪夢の中にいる。
差し伸ばされた優しい手でさえ、自分を押さえつけのしかかってきた男の影に重なって、夢中で払いのけ、飛び退った。
一方の直江は訳がわからない。払われた手を呆然とみつめ、もう一度距離を詰めようとした時、再び高耶が絶叫する。
「おれに触れるなっ!下郎!」
その激しさに足が竦んだ。
高耶は凄まじい形相で直江を睨みつけてくる。
その眼の中に、自分に対する恐怖と憎悪しかないのに気づいて、全身から力が抜けた。
その隙に、じりじりと後ずさっていた高耶が身を翻して駆け去っていく。
追おうとする気力も残っていなかった。
怖れていた時がとうとう追いついたのだと、そう観念した。




がむしゃらに走って、松の根っこに足を取られた。地面にしたたかに打ちつけられ、そのまま起き上がれずに蹲る。
封印していたものが一気に溢れ出る衝撃に身体と精神がついていかない。

あの海岸での屈辱を皮切りに、越後に赴き、義父に出逢い、やがて戦いに敗れて自害し……その後の換生に続く永い年月が、濁流のように高耶を飲み込み押し流していく。
身を固くしてこらえ続けた。
迸る記憶は、無意識に自分の纏っていた殻まで破って内面を曝け出す。なによりも耐えがたいのは、その弱さを正面から受け止めねばならないことだった。歯を食いしばり、爪を自らの腕に突き立てる。皮膚が破れて血が流れ出す。その痛みにも気づくことなく、高耶は記憶の奔流に耐え続けた。

どんな激流も緩やかな澱みを持つように、やがて、きれぎれの中に、辛いだけではないあたたかな思いが混じりだす。流れる時間から切り離されて共に闘ってきた仲間の顔が昏い流れの中にたゆたう灯篭のように浮かび上がる。換生を繰り返す中、たとえ外見が違ったとしても見間違うはずなどなかった。
狂いそうなほど膨大な時間の蓄積の中で、彼らの存在だけが変わらずに側にあった。

―――景虎様……
穏やかの声音の幻聴が聴こえる。




「景虎様…」
繰り返し聴こえる声が幻などでなく現実なのだと気がついて、ぴくんと高耶の全身が震えた。
蹲った姿勢から緩慢な動作で身を起こす。どのくらいそうしていたものか、固く強張った身体中の筋肉が悲鳴を上げた。
目の前に見慣れた男の姿があった。のろのろと口を開く。
「直江…」
非難も哀願の色もなくただそこにいる男の名を口にする。
「憶いだされたのですね…」
目を閉じて傍らの松の幹に背中を預ける。もう何を言うのも億劫だった。
「私を調伏なさいますか?それとも追放?」
「…何故だ?」
しわがれた声で問い返す。
「あなたは……私を許せないのでしょう?あなたを裏切った私を」
覚悟を決めてしまった男の声だ。裁かれるのを、ただ待っている。運命として静かに受け入れようとしている。
直江の言葉に、先程彼を払いのけた感触が戻ってきた。
思わず広げた両手に目を落とす。血のこびりついた指先は暗がりの中でどす黒いしみにみえた。まるで弱さをそのまま染め上げた自分の心の中のように。
「違うんだ…直江」
そっと握りこんで血の汚れを隠す。
「卑怯だと罵ってくれていい。おれは…自分の狡さにずっと目を瞑ってきた。すべておまえになすりつけて、被害者ぶっておまえだけを責めた…。罪はオレも背負うべきなのに」
頭を仰け反らせ樹肌にもたせかけてその表情を男の正面に晒す。もう何も隠さないというように。
「ずっと気づいていた…。おまえのおれを見る視線に。気づいていて…知らないふりをしていた。……もうずっと…。自分では言い出せなくて、おまえが仕掛けてくるのを、自分に言い訳がつく状況をずっと待っていたんだ」
今までの鎧をかなぐり捨てるように、顔を逸らさずに景虎として語り始めた高耶を、立ち尽くしたままの直江が凝視する。

あれほど剥き出しの憎悪をぶつけられて、もう修復は不可能なのだと悟った。あの拒絶は本心だった。いかに言葉で飾ろうと、もう自分が受け入れられることはない。
それなのに、いまさらこのひとは何を言うのだ?その思いが口をつく。
「でもあなたは決して隙をみせなかった。…見事な采配ぶりでしたよ。確かに人の上にたつ器なのだと誰もが納得し、仕えることに無上の喜びを見出すような。私も含め、晴家も勝長殿も、口にはしませんが長秀もそうです。皆、あなたに魅せられていた。
その想いだけをずっと持ち続けられていたらよかったのに…。
いつかあなたは私の中で主君以上の意味を持つ存在になってしまった。決して届かぬ想いに焦がれ続けて…私はあなたを追い詰めた。あなたに拒絶されて当然だ」
「違う。違うんだ。直江…」
高耶ががくりと項垂れる。
「……男に…乱暴されたことがある…」
聞き取れないほどの小さな声だった。両手で自分の腕を抱いたまま、背中を丸めて蹲る。白くなるほど力をこめた指先が、傷だらけの肉に食い込んでいる。肩がこまかく震えていた。
「昔…北条にいたときだ。浜辺で、松林があって、今日みたいに赤い月がでてた……手引きしたのはおれの守役だった」
もしも自分に為されたあの仕打ちに、劣情でもなんでもいい真摯な心があったなら、ここまで傷つくことはなかった。相手を憎み嫌悪するだけで済んだのだ。
だが、実際は少年の背負う北条家に対する意趣返しが目的の行為だった。辱めるためだけの道具として貶められ、心のない木偶同然に扱われ、全存在を否定された。
結局は名門の血を引く器だけが必要なのだと。内面を欲する者などいないのだと、痛みと屈辱のうちに精神を打ち砕かれた。
その傷は今も癒えない。
忘れたかった。すべてをなかったことにしたかった。だが自らが属し背負う家名は、常に責務を求めてきた。
「……それ以来、他人を信ずることができなくなった。心を開かない主に真から仕えたい人間はいないだろう?
だから…せめて強くなろうと思った。常に正しく、冷静な判断で人を従える立場になろうと…虚勢を張っていた」

ああ、だからなのかと、妙に醒めた頭で直江は思う。
何故彼のことを見映えが良いだけの飾り刀と見誤ったのか、今にして思い当たる節がある。
自分の本心を決して明かさず、その鎧に隠してみせた景虎は、自覚することさえなかったが、そのまま当時の直江自身だった。 完璧な彼の偽装に、同類の自分だけが反応し、その仮面の下は紛い物なのだと決めつけてしまった。その誰にも触れさせない心の中の更に奥には紛れもない王者の資質が眠っているなど、想像すらできなかった。
そもそも天に愛された人間を凡人のものさしで量ることがいかに無意味で愚かしいかは、四百年のうちに度々思い知らされている。
「…身体は換わって…もうすでにあの時のおれじゃないのに、心はそのまま引きずるもんなんだな。何遍換生しても、どうしても素直に預けるのが怖かった。力でおまえをねじ伏せた。否応なくおれに従わざるを得ないように…おれから離れられなくなるように。 おれが夜叉衆をまとめてきたというなら、そうさせたのはおまえだ。直江。おまえの存在がおれをここまでにしてきたんだ」
血まみれの手を男に伸ばす。縋るように切なげに。

それに応えるように、直江が傍らに跪いた。伸ばされた手を両の掌に包みとって唇に寄せる。指の一本一本を口に含んで、血の味を味わった。
苦くて、痛くて、辛かった、だが自分にとっては甘露にさえ思える景虎の生命のしずくを。
弱さを晒した景虎がこんなにも愛しい。もたれている樹の株から、そっと引き剥がして懐深く抱き寄せた。
顎を直江の肩に載せて高耶がおずおずと両手をその背に回す。すでに身体が覚えている安心感に、深く息をついた。
「もっと早く、こうできていたら…彼女は死ななくてすんだ…」
悔悟の呟きは流れ出した血以上に苦い。
「許して欲しいなんて言わない。生きている間、ずっとこの罪は背負います。そしてあなたを絶対に離さない…」
「…絶対なんて、言うな、直江。言えば言うほど軽くなってしまう…」
肩に回した手で軽く叩きながら窘める。
「他人のいう『絶対』なんて信じない。あるのは時間に淘汰された必然だけだ…」
あやすようにリズムを取りながら自分の考えに沈みこんでいく。
「もしも、あんな目に遭わなかったら…、他人に背中を預けられたら…、おまえの信頼をあの時に勝ち得ていたなら、上杉景虎はあそこで死ななくてすんだかもしれない…そんなふうに夢を見ることがあった。
でも、現実は甘くない。おれが義父上の跡目を継いでいたら上杉は豊臣の代ですでに潰されていただろうな。結果的に景勝は正しかった。あの時代を生き抜いて一度は敵対した徳川の世でさえ連綿と絶やさぬ地盤を築いていった…」
もう遠すぎて、見知らぬ他人の名前を聞くようだ。
あの時、理不尽に命を奪われなかったら、その名は神にも等しい響きを持っていたはずなのに。
だが、自分はすでに唯一の存在を知ってしまった。あの時と同じではいられない。
「それをおっしゃるなら、私が暗殺されたのも歴史の必然ということになりますね。私があのまま直江の家督でいたら、同じ結果にはならなかった。兼続を世に出すためには、私の存在は邪魔だったということでしょう。
勝ち負けにだけこだわった時期がありました。あなたを選ばずに、景勝公についた自分の正義を主張するためだけに。
だが、勝ったのは私じゃない。責務を全うしてその生を終えることのできた生き人たちのものだったんです。私もあなたもすでに勝ち負けの範疇にすら入っていない、歴史から淘汰された存在なのですから」
「……そうだな。おれたちは消えなければならなかった。『もしも』なんて考えるだけ無駄だな。負け犬の繰言だ」
自嘲の洩れる口に直江の唇が重なった。
言葉を封じられて不満げだった瞳がやがてゆっくりと閉ざされる。
抗う気持ちが萎えたのを察して、直江が口の端に触れたまま囁いた。
「それでもいい。今、ここにこうしてあなたといる。それが私にとっての必然だ。天の配剤です…」
応える代わりに肩に置いていた手を首筋に回した。そうして今度は自分のほうから深いキスを仕掛ける。
癒されるという意味を全身で覚えこんだ身体が、今度はその相手に許しを与える。

絶対に、永遠に。
言霊にするととたんに不確かになるものを、身体を使って与えあう。

絶対に、永遠に。この生命の尽きるまで。




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原作最初は五巻で終了予定だった…という話を聞いたとき、こんな感じであっさり終わるんだったのかな?と思った覚えがあります。
気持ちが通じ合ったなら後は怖いものなんかなくてさっさと宿敵倒すのかと(苦笑)
この和綴じ本四冊で私のミラージュパロはいったん終了しました。
日常の何気ないひとコマでもネタにしてパロ書き続けていいんだ…と、そう開き直るには、もう少し時間が必要でした。

当時のあとがきに『海』と一言で言ってもその心象風景は人によって違うらしい…といったことを書いています。
本当は相模の海を書きたかったけど、一度も見たこともない海をそれらしく書くのはその海を知っている人たちに対してすごく失礼な気がしたのです。
そんなわけで、わざわざ宮城にまで出張ってきていただいたのでした…(笑)
この半島には子供の頃二年ちょっと住んでいました。いい処です。すごく。




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