リビングからの死角にはいったとたん、直江は顔を覆い、脱力したように壁に背中を預けた。 薄暗がりの中、そのままずるずると座り込む。 …どうにでもしてくれ… 頭の中で、たった今、聞いたばかりの高耶の声がこだましている。 ――どうせなにもかんがえちゃいないのだ、あのひとは。 身を起こし、すぐ傍の冷蔵庫を開けながら思う。 ――だからあんなにあっさりと口にすることができる。 よく冷えている壜に手を掛け、ドアポケットから引き抜く。 ――あの人に対する俺の欲望を少しでも察していたら、あんなセリフは吐けないだろうに。
プラスチックの封を引き千切り、ねじ込み式になっているアルミのキャップを思い切り捻った。 ――こんなふうに思うがままにあの人の身体を扱えたら……考えるだけで身震いが出る。
無防備でいるだけに始末が悪い。 あまくて、つらい夜になりそうだった。
「高耶さん?眠るならベッドへいってください。こんなところでは風邪を引きますよ」
揺り動かそうとした指が途中で止まった。
高耶の瞼がゆっくりと開いたのだ。 「寝てない…。あんまり気持ちいいんでつい目を瞑っただけだ……」 そう言いながら、緩慢な動作で上体を起す。 「世間ではね、そういうのを酔っ払ったというんですよ。もうお開きにしたほうがよさそうだ」 すっかり保護者の顔になってしまった男に、しゃんと背筋をのばした高耶が言い返した。 「大丈夫だって。それに…」 ちらりとテーブルの壜に眼をやって顎で指し示す。 「もう開けちまったんだろ?それ。だったら気の抜けないうちに呑まなきゃな」
「さっきのと…少し違う。あまくないけど力強い。こういうのもいいもんだな」 「そこまでわかれば充分ですよ。さあ、これでもう気は済んだでしょう?」 さっさと寝室へ追い立てようと近付く直江だが、高耶は動こうとしなかった。首を傾げながら言う。 「…やっぱり酔ったのかな?少し動かすだけでくらくらする……だけどすごく気持ちいい…寝るなんてもったいない。もう少しこのままじゃダメか?…もう少しだけ…おまえと一緒に……」
膝でにじり寄ろうとした高耶のバランスが崩れたのと、直江の腕が伸びたのは同時だった。 「思ったとおりだ。ソファよりもずっといい。あったかくて安心できる…」 独り言のように呟きながら、鼻先を擦りつけるように男のシャツに顔を埋めた。 「いい匂いがする…安心するのはこの匂いのせいかな?おまえ、いつもオレを庇ってたろ?戦いのたんびに。そのときは夢中で気がつかなかったけど、身体は覚えちまってるんだな……ここならば大丈夫だって」 「高耶さん」
思いがけない告白に直江がうろたえたような声を上げた。 「あ……ヘンなこといっちまったな。悪い」
照れ臭そうに直江から離れようとする。 「駄目だ。やっぱり目が回る…肩貸してくれ」 「だからベッドでおやすみなさいと言っているんですよ。さ、肩でも何でも貸しますから、行きましょう。ね?」
一刻も早く目の届かない場所に隔離してしまいたい。 「やだ」 「この酔っ払い」 「おまえも酔っ払っちまえば?そうすれは気にならないぜ。オレもつきあうから」 「まだ呑む気なんですか?呆れた人だ」
ふふんと高耶が息だけで笑う。
ぴったりと寄り添われたわき腹から肩にかけて、新たな熱が生まれてくる。 「自棄酒はしないんじゃなかったのか?」 肩のあたりで声がする。下から見上げる瞳は残酷なほど無邪気だ。 「誰のせいだと思うんです?」 直江の葛藤にまだ気づかない高耶は訝しげに考え込んで、それから得心したようにくすりと笑った。 「悪かったな。肩にもたれているのが男のオレで。どうせなら、きれいな女の人の方がいいにきまっているもんな」
どこまでも健康的な思い違いをする高耶に直江はもう、憤死寸前になる。
昂りを紛らわそうと杯を重ねる男を高耶はだまって見上げている。 「くれ」
直江はもう逆らわなかった。 だから、ぽつんと高耶の洩らした言葉の意味を直江はすぐには掴めなかった。 「この酒はおまえに似ている…」 「え?」
「水みたいにさらっと飲めちまう。香りも甘味も…さっきのほど際立っているわけじゃない。でも、最後に力強さが残る…後からもっと欲しくなる。
酒のことをいったのか、それとも直江自身を指したのかは、もう高耶本人にも解らない。
確かなのは、この心地よさが酒のせいだけではないということだ。 「殺し文句ですね…」 「えっ、そうか?思ったまんまなんだけどな。……ヘンか?やっぱり。酔っ払ってバカいっちまったかな?」 「いいえ」 耳元に口を寄せて囁く。 「ちっともおかしくなんかありませんよ」
吹き込まれる息の感触にくすぐったそうに高耶が身をよじった。
たとえ、一番望んでいる意味はないと解ってはいても、直江には充分だった。
壊れ物を扱うようにそっと両腕の中に抱き込む。
野生だった少年がまるで甘える仔猫のように安らいだ寝顔で自分の腕の中にいる。
「高耶さん?」 「いやだ。いくな」 「このままでは寒いでしょう?窓を閉めてくるだけです。どこにも行きませんよ?」 「いいから…傍にいて」 直江の声が届かないのか、必死に高耶はすがりついてくる。まるで小さな子どもに還ったように。 「やれやれ…悪い夢でも見ましたか?」
慰めようと背中に手を回し、髪を撫でた。 「おまえと離れたくない…」 瞳を閉じたまま、半開きの唇から洩れる高耶の本心。
無意識での告白に、とうとう直江の中で何かが弾けた。 「本当に?本当に俺と一緒にいたい?」 こくりと高耶が頷いた。 「じゃあ、そうしてあげる。二人で行きましょう。ね?」
言いながら高耶を抱き上げ立ち上がる。 「朝まで一緒にいてあげる…あなたの中で俺を酔わせて」
良い匂いのする温もりは消えたりなんかしなかった。そのまま、自分を包んでくれて…ふわふわと宙に浮いたような気がしたのは、まだ酔っているせいだろうか?
優しい手の感触が身体のあちこちをまさぐる気配がする。 「ん……」
こらえきれずに身じろぎして、すがるものを探す手が宙を切る。 「あんっ…」
首筋に刺すような痛みを感じて、高耶は小さく悲鳴をあげた。 「なお…え?」
すぐ上に見慣れた男の顔があった。 (なんで…?)
見開いたままの高耶の眼に涙が滲む。振り払おうときつく閉じた瞼から溢れた雫が流れ落ちた。 「なおえ…」
訊きたいことは山ほどあるのに、うわごとのように名を呼ぶことしかできなかった。 「言ったでしょう?あなたが愛しいんです。どうにかなってしまいそうなほど…好きで好きでたまらない。もう…自分で自分が抑えられない……」
高耶は震えながら聞いている。
男の舌先が滑ってゆく。 「あなたのせいだ…。あのままでよかったのに。あなたを守ることだけで満足できたのに。あなたが誘ったりするから……もう歯止めが切れてしまった…」 「ばっ!…か…だれが…さそってなん…か…」 乱れる呼吸で、やっとのことで言葉を絞りだす。 「誘っていたんですよ。一晩中、ずっと。天使みたいなあどけない顔をして…俺をずっと挑発してた。ずるい人だ。何も知らないふりをして、俺を試して、平然ときわどい言葉を口にする。男を誑しこむ娼婦なんかよりずっとたちが悪い…罪な人だ」 「!…この…」
酷い言われように、かっと頭に血が上った。 「なおえ…?」
瞳と瞳があったその瞬間に、思わず、男の名を呼んでいた。 「だからさっさと休んでもらいたかったのに。俺が正気でいるうちに。あなたはそのチャンスさえも自分で潰して俺を刺激しつづけた。女なんかいらない。あなたがいればいいんです。あなた以外欲しくない」
言葉と一緒に愛撫の熱も高まってくる。 「あなたもそうだと言ってください。俺以外いらないと。ずっと傍にいるから…決して離れないから…俺を拒まないで…」 「くっ!」
刺激に耐え切れずに、高耶の身体が大きく跳ねた。
さっきまで浸っていた気持ちのいい夢。 高耶の表情の変化を、勘のいい男は見逃さない。 「そうです。あなたがその口で言ったんです。傍にいろ。離れるな。と…。無意識のうちに本当の真実を。だから、これはみんなあなたの望んだことなんですよ」
高耶は呆然として声も出ない。
ショックが高耶から対抗する気力を奪った。 ぽたっと熱い滴が顔にあたった。上を見上げて、涙を流す男の顔を見る。 (おまえが泣くことなんてないだろ…)
投げつけようとした言葉は、声にならなかった。 「オレのせいか…」
ここまで直江を追い詰めたのは自分だ。 「欲しいなら…やる。だから…オレから離れるな…」
この男の希なら、叶えてやりたい。 「酒よりも…さっきよりも、もっと気持ちよくしてあげる。だからあなたも…俺を酔わせて…」 「ん…」 夜気になやましい喘ぎを溶かし込みながら、ふたりの夜がこうして始まった。
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