聯珠 2


リビングからの死角にはいったとたん、直江は顔を覆い、脱力したように壁に背中を預けた。
薄暗がりの中、そのままずるずると座り込む。

…どうにでもしてくれ…

頭の中で、たった今、聞いたばかりの高耶の声がこだましている。

――どうせなにもかんがえちゃいないのだ、あのひとは。

身を起こし、すぐ傍の冷蔵庫を開けながら思う。

――だからあんなにあっさりと口にすることができる。

よく冷えている壜に手を掛け、ドアポケットから引き抜く。

――あの人に対する俺の欲望を少しでも察していたら、あんなセリフは吐けないだろうに。

プラスチックの封を引き千切り、ねじ込み式になっているアルミのキャップを思い切り捻った。
あっけないほど簡単に密封されていた蓋が緩み、中の液体から細かな気泡が立つ。

――こんなふうに思うがままにあの人の身体を扱えたら……考えるだけで身震いが出る。

無防備でいるだけに始末が悪い。
心の垣根を取っ払ってしまって気を許している今はなおさらだ。
直江を刺激する高耶の言動は、本人が無自覚であるだけに、余計な自制を直江に強いる。

あまくて、つらい夜になりそうだった。





波立つ心をようやくのことで鎮め、部屋に戻ると、高耶はソファに突っ伏して眼を閉じていた。
持て余すように投げ出された四肢がまぶしく眼を射る。
湧き上がる疚しさを押し込めて、男は声を掛ける。

「高耶さん?眠るならベッドへいってください。こんなところでは風邪を引きますよ」

揺り動かそうとした指が途中で止まった。 高耶の瞼がゆっくりと開いたのだ。
そのまま潤んだ瞳で見つめ返す。

「寝てない…。あんまり気持ちいいんでつい目を瞑っただけだ……」

そう言いながら、緩慢な動作で上体を起す。

「世間ではね、そういうのを酔っ払ったというんですよ。もうお開きにしたほうがよさそうだ」

すっかり保護者の顔になってしまった男に、しゃんと背筋をのばした高耶が言い返した。

「大丈夫だって。それに…」

ちらりとテーブルの壜に眼をやって顎で指し示す。

「もう開けちまったんだろ?それ。だったら気の抜けないうちに呑まなきゃな」





封切りしたばかりの酒を新しいグラスに注ぐ。
神聖な儀式ででもあるかのように、高耶はそれを恭しく口に運び、そして含んだ。
喉がこくりと上下に動くのを傍らの男が息を詰めて見守っている。
閉じられていた瞼が開いて、男を見る。託宣をくだすように。

「さっきのと…少し違う。あまくないけど力強い。こういうのもいいもんだな」

「そこまでわかれば充分ですよ。さあ、これでもう気は済んだでしょう?」

さっさと寝室へ追い立てようと近付く直江だが、高耶は動こうとしなかった。首を傾げながら言う。

「…やっぱり酔ったのかな?少し動かすだけでくらくらする……だけどすごく気持ちいい…寝るなんてもったいない。もう少しこのままじゃダメか?…もう少しだけ…おまえと一緒に……」

膝でにじり寄ろうとした高耶のバランスが崩れたのと、直江の腕が伸びたのは同時だった。
抱きとめられて、そのまま直江の肩に頭を預けて満足そうに息をつく。

「思ったとおりだ。ソファよりもずっといい。あったかくて安心できる…」

独り言のように呟きながら、鼻先を擦りつけるように男のシャツに顔を埋めた。

「いい匂いがする…安心するのはこの匂いのせいかな?おまえ、いつもオレを庇ってたろ?戦いのたんびに。そのときは夢中で気がつかなかったけど、身体は覚えちまってるんだな……ここならば大丈夫だって」

「高耶さん」

思いがけない告白に直江がうろたえたような声を上げた。
シャツの薄い生地越しに高耶の吐息を肌に感じてしまうからなおさらだ。極限まで刺激されて、後先考えずに暴走してしまいそうになる。
だが、名を呼ばれて、高耶ははっとしたように顔を上げた。

「あ……ヘンなこといっちまったな。悪い」

照れ臭そうに直江から離れようとする。
が、ほんの少し上体をずらしたところで、諦めたようにまたもたれかかってきた。

「駄目だ。やっぱり目が回る…肩貸してくれ」

「だからベッドでおやすみなさいと言っているんですよ。さ、肩でも何でも貸しますから、行きましょう。ね?」

一刻も早く目の届かない場所に隔離してしまいたい。
そうでもしないと、理性のタガが外れてしまいそうだ。
焦る直江に、高耶はつれなかった。

「やだ」

「この酔っ払い」

「おまえも酔っ払っちまえば?そうすれは気にならないぜ。オレもつきあうから」

「まだ呑む気なんですか?呆れた人だ」

ふふんと高耶が息だけで笑う。
直江の嘆息を肯定の意味に取ったらしく、遠慮なしに体重を預けて気持ちよさそうに眼を閉じてしまった。

ぴったりと寄り添われたわき腹から肩にかけて、新たな熱が生まれてくる。
膨張し溢れ出しそうな先触れが、身体の奥から湧き上がる。
硬く眼を閉じても、デジャヴは消えない。
それを振り切るように、直江は空いた手で酒を注ぎ一息に呷った。

「自棄酒はしないんじゃなかったのか?」

肩のあたりで声がする。下から見上げる瞳は残酷なほど無邪気だ。

「誰のせいだと思うんです?」

直江の葛藤にまだ気づかない高耶は訝しげに考え込んで、それから得心したようにくすりと笑った。

「悪かったな。肩にもたれているのが男のオレで。どうせなら、きれいな女の人の方がいいにきまっているもんな」

どこまでも健康的な思い違いをする高耶に直江はもう、憤死寸前になる。
欲情している自分を自覚してしまった分だけ分が悪い。

昂りを紛らわそうと杯を重ねる男を高耶はだまって見上げている。
暫くそうして見ていた後、おもむろに手を伸ばして器を奪い取り、一言だけいった。

「くれ」

直江はもう逆らわなかった。
こうなったら気の済むように呑ませるしかない。本当に潰れてしまってから寝床に連れていけばいいのだ。
そのときは、キスのひとつも盗んでやる。
悠然と酒を味わっている高耶を憤然と睨みつけながら、やけくそのように心に決める。

だから、ぽつんと高耶の洩らした言葉の意味を直江はすぐには掴めなかった。

「この酒はおまえに似ている…」

「え?」

「水みたいにさらっと飲めちまう。香りも甘味も…さっきのほど際立っているわけじゃない。でも、最後に力強さが残る…後からもっと欲しくなる。
一度味を占めてしまったらもう二度と手放せない…そんな気にさせる、極上品だな」

酒のことをいったのか、それとも直江自身を指したのかは、もう高耶本人にも解らない。
身体を駆け巡る酩酊感が、いつもなら、決して口にできない高耶の本音を暴いていく。

確かなのは、この心地よさが酒のせいだけではないということだ。
半身に感じる直江の体温がうれしい。
質感を伴った確かな温みは、麻薬のように高耶の心を蕩けさせている。

「殺し文句ですね…」

「えっ、そうか?思ったまんまなんだけどな。……ヘンか?やっぱり。酔っ払ってバカいっちまったかな?」

「いいえ」

耳元に口を寄せて囁く。

「ちっともおかしくなんかありませんよ」

吹き込まれる息の感触にくすぐったそうに高耶が身をよじった。
ほんのりと赤らんだ頬と潤んだ瞳と。
吐息のように語られる言葉の数々はもう愛の告白と変わらない。

たとえ、一番望んでいる意味はないと解ってはいても、直江には充分だった。
これでいい。これだけで満足できる。

壊れ物を扱うようにそっと両腕の中に抱き込む。
今度は高耶は抗わない。
最後の一杯で本当に許容量を超えたかのように、眠るように直江の胸にもたれている。
杯がその手から滑り落ちて床に転がった。鈴の音のように澄んだ音が響く。

野生だった少年がまるで甘える仔猫のように安らいだ寝顔で自分の腕の中にいる。
その事実に目が眩みそうだった。





カーテンを翻して風が吹き抜けた。
勢いのよすぎる風は、汗の引いた今となっては少々肌寒い。
高耶が身震いするのを感じて、直江は名残惜しげにその身体から腕を解き、ソファに移した。
窓を閉めようとしたのだが、立ち上がる前に腕を掴まれた。
眠っていたはずの高耶が虚ろに眼を開いている。

「高耶さん?」

「いやだ。いくな」

「このままでは寒いでしょう?窓を閉めてくるだけです。どこにも行きませんよ?」

「いいから…傍にいて」

直江の声が届かないのか、必死に高耶はすがりついてくる。まるで小さな子どもに還ったように。

「やれやれ…悪い夢でも見ましたか?」

慰めようと背中に手を回し、髪を撫でた。
かきあげて露わになったこめかみに思いついたようにキスを落とす。その昔、自分が母親にしてもらったように。
子どもは触れられることで落ち着くものだと、そう聞いたことがある。ならば、今の高耶にも有効だろう。そう思ってのことで他意はなかった――そのはずだった。
が、抱きしめているのは子どもではなく、自分もその庇護者ではないと、そう思い知らされたのは次の瞬間。
キスを受けた高耶が嬉しそうに微笑んで続きをねだるように顔を仰のけるのを見たからだった。

「おまえと離れたくない…」

瞳を閉じたまま、半開きの唇から洩れる高耶の本心。

無意識での告白に、とうとう直江の中で何かが弾けた。
与えられた格好の口実に、悪魔のような優しさで腕の中の獲物に囁き返す。

「本当に?本当に俺と一緒にいたい?」

こくりと高耶が頷いた。

「じゃあ、そうしてあげる。二人で行きましょう。ね?」

言いながら高耶を抱き上げ立ち上がる。
離されまいとしがみつく耳元に愛撫のように息を送った。

「朝まで一緒にいてあげる…あなたの中で俺を酔わせて」





どこまでが夢でどこからが現実か、もう定かでない。
気分よく酒を飲んで、気持ちのいい夢を見ていた。暖かい何かに包まれている夢だ。
それが不意になくなる予感に怯えて、なにかを口走った気がする。

良い匂いのする温もりは消えたりなんかしなかった。そのまま、自分を包んでくれて…ふわふわと宙に浮いたような気がしたのは、まだ酔っているせいだろうか?

優しい手の感触が身体のあちこちをまさぐる気配がする。
触れられたその跡が、すぅと痺れて、じんわりと熱を持つ。身体の芯がとろけそうだ。
あまりの心地よさにまたとろとろと意識が飛びかけたとき、口唇に何か柔らかいものが滑り込んできた。
とろりとした温かな液体が口いっぱいに注ぎこまれる。やっとのことでそれを飲み下すと、今度は熱いかたまりが我が物顔に動き始めた。
痺れた口腔内を優しくくすぐり、柔らかな部分をきつく吸い上げる。そのたびに甘い疼きが全身に走って、息がつまった。

「ん……」

こらえきれずに身じろぎして、すがるものを探す手が宙を切る。
すぐに硬い手応えにいきあたって夢中でしがみついた。
ようやく唇が解放される。荒く乱れた呼吸がすすり泣きのような音をたてて夢うつつの耳に響いた。

「あんっ…」

首筋に刺すような痛みを感じて、高耶は小さく悲鳴をあげた。
夢うつつの浮遊感から急激に現実へと引き戻される。

「なお…え?」

すぐ上に見慣れた男の顔があった。
高耶の視線に気がつくと、何も言わずに再び唇を重ねてくる。
惑乱した思考のまま、直江の与える刺激を受け止めた高耶がくぐもった声を上げた。
その声に煽られるように、くちづけは執拗さを増していく。

(なんで…?)

見開いたままの高耶の眼に涙が滲む。振り払おうときつく閉じた瞼から溢れた雫が流れ落ちた。
目敏くそれに気づいた男の唇が、涙の筋を拭うように目尻に触れる。

「なおえ…」

訊きたいことは山ほどあるのに、うわごとのように名を呼ぶことしかできなかった。
唇は、流れる雫を追って耳朶へと移っている。
口に含み、甘噛みして、高耶の全身を痙攣させてから、愛撫のように囁いた。

「言ったでしょう?あなたが愛しいんです。どうにかなってしまいそうなほど…好きで好きでたまらない。もう…自分で自分が抑えられない……」

高耶は震えながら聞いている。
波のように繰り返しやって来る疼きを、身体を硬くして必死にこらえている。

男の舌先が滑ってゆく。
耳朶からうなじへ、さらには鎖骨の窪みにくだって、再び首筋から顎のラインへ。
その動きだけでも耐え難いのに、濡れた痕跡をたどるように、たえず囁きかける吐息が追い討ちをかける。
全身が総毛だった。

「あなたのせいだ…。あのままでよかったのに。あなたを守ることだけで満足できたのに。あなたが誘ったりするから……もう歯止めが切れてしまった…」

「ばっ!…か…だれが…さそってなん…か…」

乱れる呼吸で、やっとのことで言葉を絞りだす。

「誘っていたんですよ。一晩中、ずっと。天使みたいなあどけない顔をして…俺をずっと挑発してた。ずるい人だ。何も知らないふりをして、俺を試して、平然ときわどい言葉を口にする。男を誑しこむ娼婦なんかよりずっとたちが悪い…罪な人だ」

「!…この…」

酷い言われように、かっと頭に血が上った。
のしかかる男を突き飛ばそうと、憤然と男の顔を睨みつける。

「なおえ…?」

瞳と瞳があったその瞬間に、思わず、男の名を呼んでいた。
毒を含んだ口調で悪意を撒き散らしているのに、男の瞳は許しを請うように切なげに高耶を見つめているのだ。
まるで悪戯が見つかって叱られる子どものように。
その痛ましいぐらいの真摯な色が、口をついて出る言葉を裏切っている。

「だからさっさと休んでもらいたかったのに。俺が正気でいるうちに。あなたはそのチャンスさえも自分で潰して俺を刺激しつづけた。女なんかいらない。あなたがいればいいんです。あなた以外欲しくない」

言葉と一緒に愛撫の熱も高まってくる。
いったんは退けた快感が再び背筋を這い上がる。

「あなたもそうだと言ってください。俺以外いらないと。ずっと傍にいるから…決して離れないから…俺を拒まないで…」

「くっ!」

刺激に耐え切れずに、高耶の身体が大きく跳ねた。
白濁しそうな頭に、直江のセリフの何かが引っ掛かる。
意思を無視して走りだしそうな身体を止めるために、夢中でそれにしがみつく。
そして不意に思い当たる。夢の中の言葉と同じだと。

さっきまで浸っていた気持ちのいい夢。
あの中で自分が口にし、誰かが応えてくれたフレーズ。…あれは、誰だ?…夢ではなかった?

高耶の表情の変化を、勘のいい男は見逃さない。

「そうです。あなたがその口で言ったんです。傍にいろ。離れるな。と…。無意識のうちに本当の真実を。だから、これはみんなあなたの望んだことなんですよ」

高耶は呆然として声も出ない。
自分の言ったという言葉そのものよりも、それを盾にとって言い募る男の豹変ぶりが信じられなかった。
あの、誠実な言葉で、真摯な思いで自分の殻を破った直江はどこへいってしまったのだろう?
それともこれがこの男の本性なのだろうか。
自分は…また信ずるに値しない人間に心を許す愚を犯した…?

ショックが高耶から対抗する気力を奪った。
壊れた人形のように動かない高耶を男は腕の中に閉じ込める。
両腕を突っ張りからだの上に覆い被さりながら、激情をやり過ごそうとでもするように彼もまた動かない。

ぽたっと熱い滴が顔にあたった。上を見上げて、涙を流す男の顔を見る。

(おまえが泣くことなんてないだろ…)

投げつけようとした言葉は、声にならなかった。
行為とは裏腹に、相変わらず、男の瞳は許しを乞う切なさに満ちている。
この男の心は二つに引き裂かれているのだ。と。
突然、瞳に映る感情の真意に思い至って、高耶は愕然とした。
辱めるように吐かれた台詞は、たぶん、半分嘘で半分真実だ。
庇護と制服。 ただ守りたいと願う思いと、ねじ伏せたいという欲望と。
危うい均衡を保っていた男の感情が、高耶の方から距離を詰めたことで狂ってしまったのだ。
ぎりぎりで欲望を選び取った男は、だから、わざと露悪的に振舞った。自らの退路を絶つために。高耶自身に己を憎ませるために。

「オレのせいか…」

ここまで直江を追い詰めたのは自分だ。
男は最後の最後でためらっている。
ここまで自らを追い込みながら、高耶を傷つけることを、喪うことを恐れている。
直江という男の底なしの自分への思いを見せ付けられた気がした。
もう充分だ。
手を伸ばして、男の腕に触れる。
細かな震えが伝わってくる。そのまま掌を滑らせて、男の頬を包み込んだ。
苦しげに目を瞑り、顔を歪めていた男が信じられないというように高耶をみた。
直江が言葉を発するより先に、高耶がその顔をゆっくりと引き寄せる。
涙の引っ掛かった睫に舌先を伸ばして、その滴を吸い取った。
しなやかな指が柔らかな髪に絡む。
そうして直江を胸に抱きしめながら、高耶は今度こそ、自分の意思で本心を伝えた。

「欲しいなら…やる。だから…オレから離れるな…」

この男の希なら、叶えてやりたい。
狂うほどに求めてくれる男には何を与えようと過ぎることはない。自分は…それ以上のものをこの男からもらっているのだから…。
直江の頭がゆっくりとあがってふたりの視線が絡んだ。
高耶がぎこちない笑みを浮かべて、誘うように眼を閉じる。
唇が重なった。
長い長いくちづけの後で、息を弾ませながら直江が囁く。

「酒よりも…さっきよりも、もっと気持ちよくしてあげる。だからあなたも…俺を酔わせて…」

「ん…」

夜気になやましい喘ぎを溶かし込みながら、ふたりの夜がこうして始まった。

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・・・すみません。欲情したり、保護者になったり、直江、感情の起伏が激しいなあ…と思いつつ、それを表現する筆力ありませんでした。
狼なら狼らしくさっさと喰ってしまえっ!(←殴)と、内心どつきながらも、
結局詰めの甘いのが直江なのよね…と嘆息しながら納得してしまう私は、やっぱりどこかヘンですか?(笑)
続きは、まんま、お約束のアレです(笑)省いてくださっても一向に構いません。むしろ省いていただきたいのですが…。はてさて???




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